話しを聞いて助かる道なのに……
いろいろな理由により
*教話の無い教会が出てきたとか……
*教話を聞く機会が少ない信奉者が増えてきたとか……
*教話のない教会の祭典後の教話
*信心の指導やまとめをする人のいない、教会の信心研修会
*信心の指導やまとめをする人のいない、信奉者のグループの信心研修会
お気軽に申し込んで下さい。
*お礼や接待の心配はいりません。(交通費のみご負担ください)
*聴教者(教話を聞く人)の人数に関わりなく
(少数の聴教者、集まりこそが主旨です)
*遠方、地域に関わりなく
(日々活動しておられる教会はご遠慮下さい)
〒530-0026 大阪市北区神山町9-15
金光教扇町教会 押木廣太
TEL06-6312-1149
FAX06-6312-1148
メール アドレス post@ko-ougimachi.com
ホームページ アドレス http://www.ko-ougimachi.com/
*以下に教話の題や座談のテーマの例と、押木廣太のプロフィールを記載しています。
ご参考に。
また、チラシを印刷してお見せ頂ければ、有り難いことです。
○ 教話の題や座談のテーマの例
(ご要望により、どのようなテーマでも。)
*教祖様=・概論 ・神人の深まり(信心の展開) ・教祖様とご家族
・私の頂く教祖様 ・他
*教典の御理解の解釈
*人生=・健康(病気) ・家庭(経済、人間関係) ・結婚 ・生き甲斐
・仕事(事業、内容、人間関係) ・育児 ・老い ・老人介護 ・他
*信心の成長=・信心の仕方 ・信心とお供え(御用) ・代を重ねての助かり
・信心継承 ・おかげを受けるコツ、落とすコツ ・家族勢信心
・お手引き ・他
*金光教儀式について=・月例祭 ・春秋大祭 ・春秋霊祭 ・元日祭 ・設立記念祭
・越年祭、半年のお礼祈願祭 ・勧学祭 ・他
・宅祭 ・年祭 ・改教式 ・結婚式 ・葬儀 ・七五三
・儀式と神饌物 ・玉串奉奠 ・他
*信奉者=・教徒、信徒 ・信徒総代 ・責任役員 ・輔教 ・他
*教団の組織、仕組み
○押木廣太略歴 (教団の公の御用) 平成22年(2010)現在
・昭和19年(1944)扇町教会二代教会長押木弘一大人の三男として出生
・昭和41年(1966)金光教教師拝命
・昭和45年(1970)~昭和48年(1973)中近畿教務所職員
・昭和48年(1973)~現在 大阪府連盟布教部講師
*『大阪府連盟布教部』は60年もの間、府下の教師30数名が、府下の教会の月例祭、大祭の教話の奉仕(ボランティア)を続けてきている。
・昭和53年(1978)扇町教会長就任
・昭和58年(1983)~昭和63年(1988)本部 布教研究員
・昭和60年(1985)~平成 5年(1993)本部 信徒研修講座講師
・昭和61年(1986)~平成 6年(1994)本部 金光新聞論説員『北斗星』連載執筆
・平成 2年(1990)~平成10年(1998)本部 教学研究所評議員
・平成 5年(1993)~平成 6年(1994)大阪府連盟布教部長
・ 〃 ~平成10年(1998)大阪府第3教会連合会長
・平成 7年(1995)~平成10年(1998)大阪府連盟理事長
・ 〃 ~平成11年(1999)本部 金光教徒社理事
・ 〃 ~平成14年(2002)本部 輔教志願者講習会講師
・平成18年(2006)『四十年褒賞』を受ける
・『おかげを受けるコツ。落とすコツ』
・『しゃあないやん かんにんしたって』
・教話集『一日一話』第1集~13集
・『真の傘開かれて』
・『柳の木』
・『扇町教会史』第1集~5集
・『金光教名刺』
・テレホン教話(06-6312-1430)
・『今日の神様からの気づき(携帯電話へのメール)』
・ホームページ開設 ・布教文章を新聞折り込み配布 ・教会月間機関誌
○『ボランティア教話出張』を思い立った主旨。
『ボランティア教話出張』をさせて頂きます。
もし、
*教話の無い教会が出てきたとか……
*教話を聞く機会が少ない信奉者が増えてきたとか……
というような話題が出た時、押木廣太の『ボランティア教話出張』を話題に出して頂ければ有り難いことです。
チラシもお見せ頂ければ、有り難いことです。
どうぞよろしくお願いいたします。
○
祖母押木マスが教祖の晩年に、父福嶋儀兵衛大人(真砂教会初代教会長)に連れられて大本社に参拝し、教祖より
『氏子、人にものを頼むな。此方の道は唐傘一本で開くことが出来る。氏子信心しておかげを受けよ』
『ただいま、神様はあのように仰せになったが、人の心は移り変わりやすいものである。その、人を頼りにするから、腹を立てたり物事を苦にしたりすることになる。人に向かう心を神様に向けよ。神様は、氏子の願いは何でも聞き届けてくださる。此方が傘一本と言うことは、真一心になりきることである』との教えを頂いた。(教典P470)
マスはこの教えを頂き、主人押木領七をこの道の教師となるべく導き、長男弘一と共に、明治42年(1909)大阪の梅田の地に扇町教会を開教した。この開教より昨年平成21年は百年となり、昨年秋に立教百五十年、扇町教会開教百年祭を麗しくお仕えさせて頂いた。
扇町教会は昭和20年の太平洋戦争の空襲で全てを焼かれ、信者も散り散りとなった。戦争が終わり、父弘一(二代)と母冨美恵は、焼け跡にバラックを建てたが、その教会の土地を進駐軍が使用するとのことで、立ち退き命令が出た。戦争が終わって後も、戦災を受けたのであった。
両親はひたすら『傘一本』の教えを頂き、教会復興へ信心の情熱を傾け、昭和24年(1949)に現在地に、屋根に瓦なく、天井なし。床に畳みなく、壁に土なし、窓にガラスも無し。勿論電気も水道も、ガスも無い建物で復興のおかげを頂いた。
父はすでに62才(明治20年生)、病身の母は命をかけて、参拝者の無い広前で、敗戦で打ちひしがれた人々の人生を、国の立ちゆきを祈りに祈った。
復興をして間もなく、大阪府連盟布教部が発足(昭和29年)した。府下の各教会へ説教の奉仕をする活動である。父はさっそく、講師となって、府下の各教会の月例祭の説教に回った。この活動のために、月の半分は教会を留守をするようになった。そのことにより、両親は度々ぶつかった。
『お父さん、他の教会の御用も結構ですが、扇町教会は復興して間が無く、教会長が不在では困ります。出かける回数を減らして下さい。』
という意味である。
母がひつこく食い下がるので、とうとう父は、
『大阪の多くの教会は戦災に遭い、バラック普請、未だに防空壕のお広前もある。戦災で大切な人や家を失った信者、ご主人の教会長や若先生が戦死された教会など、みなさん、必死で御用されている。そのような大阪の復興のお役に立てるのであれば、扇町教会は潰れてもいい』と言い放った。
それいらい、母は父の御用に一切口をださないようになり、父の御用を応援し、父に代わり教会の御用をしつつ、父の不足を私につぶやくことなく、父の信心の大きさを語りつつ私を育てた。
また、学院を出た若い私に、両親は教会の全てのことを任せてくれた。
この両親の御用ぶりを見て育った私も、その当時の父の年齢を超えた。開教百年を節として、改めて私自身のこれからの御用のあり方を問うてみた。
教会の後継の副教会長高橋政広も40代となり、教会の内外の御用に立っており、充分に教会を任すことが出来る。
しかし、私は隠居するには神様や両親に申し訳ないこととなる。
そこで、思い立ったのが『ボランティア教話出張』である。
少しでもお役に立てばとの願いのもとに、公表させて頂くこととなった。
もし、
*教話の無い教会が出てきたとか……
*教会長、教師不在の教会が出てきたとか……
*教話を聞く機会が少ない信奉者が増えてきたとか……
というような話題が出た時、押木廣太の『ボランティア教話出張』を話題に出して頂ければ有り難いことです。
また、チラシを印刷してお見せ頂ければ、有り難いことです。
どうぞよろしくお願いいたします。