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あいよかけよで、腹が立つ

 信心する人は、十人の股はくぐっても、一人の肩は越すな。(『天地は語る』二六一)

 負けてこらえておれ。負ければ損をするからばからしいと思うかも知れないが、神がまた、くり合わせてやる。そして、人からもよい人と言われるようになり、身に徳がついてくる。(『天地は語る』二六二)

 今日は人と人との関係、そしられるとか、そしられへんとか。あるいはまた、「十人の股はくぐっても、一人の肩を越すな」とか。負けてこらえておれとか、人間関係のところで辛抱していくことを教えてくださっておられますが、なかなか、これ簡単に出来んもんでね。頭へきますよって、カチンとね。そこで、色々な関係がそこにあって、馬鹿にされるということもあるわな。
 例えば、子供のいじめの問題も、同じようなところがありますな。いじめられてもこらえておれ、ということなのか。やっぱり神様にお願い申し上げて、いじめられないこちら側にならしてもらうことが大事なことですな。いじめられないこちら側にならしてもらう。すなわち徳を積まして頂くということ。信心で言うたら、徳を積ませて頂くといこと。いじめられないこちら側にならしてもうていく、中身を生み出していくことが大事なことじゃないかと、このように思う。


 また、いじめではないけれども、今度は、ぶつかるということがある。このぶつかる時に、相手のことを願えるかどうか、いじめではなしにな、ぶつかるということがある。主張し合うて、ワアーといってしまう。ぶつかる時、あるいは合わない時がある。私の若い時には、センチ詰め(トイレへ押し込む)みたいに、三段論法で「こうこう、こうで、こうなる、こやないか」と、相手をコテンパンにやったことがあったんですけど…。それは間違うておったな。そんなものじゃない、論理ではない、相手がそう言わざるを得ない、相手の中にある悲しさとか、辛さとか、あるいは、極端なこと言うたら、無茶苦茶な論を出したりする人。白を黒と言い張ったり、するようなことがある。「これ間違うてるじゃないか。こうこう、こうで、こうやないか。」とやるのは簡単なことなんですけど、センチ詰めにしていくことも、簡単なことなんですけども。その黒いものを白じゃと言い張る、向こうの悲しさというもの、その奥にある悲しさというもの。言葉から出たら、白は黒、黒は白と間違うて出てる。お前の論は間違うておる。間違うたことを言うておると、理屈ではそういうことなんでしょうけど、その奥にある何とも言えない悲しさ、子供が駄々をこねてるようなもの。「駄々こねたらいかんやないか」は、簡単なこっちゃ。「お前何してんねん」と言うの簡単なこっちゃ。駄々こねてる子供の悲しさ、辛さというものがありますな。「もうちょっと、スキンシップしてくれ」とかというような色々なもんがありますわな。
 論理で詰めていけないもの。そこを、見さしてもろうて、そこを大事にさしてもろうて、そこを抱えさしてもろうて、という信心をさして頂く。そこが大切なことじゃないかと。そうやないと、論理詰めで相手を負かしても、相手やっつけてしもうても、何にも、そこに、いいものが生まれてこない。助かりが生まれてこない。「あいよかけよで、腹が立つ」言うてね。あいよかけよで腹が立つどころか、クソッたれと思うことだけ。例え論理で勝ったとしてみても、理屈で勝ったとしてみても、その時、後に残ったものは、恨みというか、腹立ちというか、クソッたれしか、残らへんね。ひとつも助からんことになる。
 やはり、助からしてもうていく、いうことが大事なことで、その向こうの奥にある悲しさ、辛さをいつも見さしてもろうて、そしてそれを神様にお願い申していく。その時は「負けて勝て」と言われるのは、向こうが、屁理屈言うてぶつかってきたら、「そうか、そうか」と負けておく。「負けて勝て」と。勝てというのは、勝敗の勝ち負けではなしに、本来の目的、願いである、おかげを蒙っていくということが、大切なことなんですな。そこへ心を向けるということに、二通りありますんやな。この負けるとか、あるいは十人の股をくぐっても、一人の肩を越すなと言われるものは。
 一つは、いじめに遭うことがある。これは、いじめに遭わないおかげを蒙らんと、それだけの徳があったら、大きいものには、向こうて来ませんからな。その徳を頂くいうことと。もう一つはぶつかるいうこと。二通りある。その二通りのところでおかげを蒙らないかんもんじゃと思います。有り難うございました。

(平成十年八月二十一日)


見ること、見ること、自分を見ること

 猿も木から落ちる、弘法にも筆の誤りという。木に登っても、危ない危ないと思っていると、用心するからけがはないが、少し上手になると、大胆になって大けがをしたり命を落としたりする。慢心は大けがのもと、健康であっても信心の油断をしてはならない。(『天地は語る』二六八)

 「一年に分限者になるような心になるな。二年にも三年にも五年にも出世をするがよし。先は長いぞ。一文二文とためたのは、みてる(尽きる)ことなし。いっこに(一度に)伸ばしたのは、どっとみてるぞ」と金光様巳の年に説得あり。(理T・市村光五郎 三・一二)

 「慢心をしたらいかん。油断をしたらいかん」と、こうおっしゃるんですけども、別に油断してるつもりもなければ、慢心してるつもりもない。ところが、端から見ると「あの人、この頃ちょと慢心してるな。油断してるな」ということが見える。また人から見られる。
 その時に「あんた、この頃慢心してるの違いまっか」と言われると、腹が立つ。「そんなことおまっかいな」と言わないかん。そういう面で、人間いうのは難儀なもんじゃなあと。昔から叱ってくださる人がある間は、ええなと、よく言うたもんや。注意してくださる方が、あるいは、叱ってくださる方があるのは幸せやなと。こう言うたもんですけれども。段々叱られんようになってきたら、困ったもんじゃ。今度はスットーンと、ひっくり返らんといかんようになる。
 そういう意味で慢心するつもりもない。だけれども、人間はあるんやね。そやから、日々のご信心いうのは、常に「恐れ入ってございます。至らん者でございます」という思いを持つこと。その思いを忘れてしもうて、「よし、これいこか」「いやいや」と。そやから、教祖様は「人より一年遅れて分限者になる気でおれ」と。分限者はお金持ちのこと。皆「商売繁盛、金持ちなりますように」とお願いはするけれども、人より一年遅れてとおっしゃる。そこらもよく見さしてもろたら、慢心が出んようにということでしょうな。


 今日は、大変な不景気でありますけれども、もし、あのまま、バブルのままいってみなさいや。日本人どないなってます。鼻持ちならんというかな。外国行っても、札ビラ切って、好き放題して、若いもんも、甲斐性もないのにええ車乗って、夜の遅くまで遊びたおして、食べ物は粗末にするわ。あれ、あのままいってみなさい、日本人どないなってます。みんながそないなったら、なんとも思えへんのやからな。ところが、こういう不景気になって、足さらわれて「わっ」。まだまだ解ってない。前々の続きかも解らへん。不景気や不景気や言うても、皆、好き放題してますわな。なかなか人間いうものは自分自身を見つめることが出来ない。「ああ、これが慢心というものかな。これは至らんことである」というものはなかなか見えません。一番難しいのは、自分自身を見ること。これは、難しい。
 お道の大先輩に高橋正雄という先生がおられた。そのお言葉の中に「見ること、見ること、自分を見ること」という一節がある。相手はすぐに見えるんですけど、自分が見えん。それで、スッコーンとひっくり返って「ちゃんとしてたのに…」と言わなならん。信心は別の目で見れば、自分を見るということ。
 禅宗で座禅を組みますな。あれも自分を見てるんですな。自分を見る。「見ること、見ること、自分を見ること」と。ほんとに自分を見るということは、難しい。そういう面で、教祖様は「一生が修行中であります」と。一生、自分を見つめたおしていかないかん。一生、自分を見つめる稽古をしていかんと。これは稽古がいりますな。人を見るのは稽古はいらんけど。自分を見るのは稽古がいる。
 三代金光様が「『日々がさら』でございます」とおっしゃるのも、「今月今日」とおっしゃるのもそいうことです。そうせんと、いつの程にか、慢心が出たり、浮ついたりね、そういうことになってきます。気を付けたいものです。有り難うございました。

(平成十年八月二十二日)

人間は不完全なもの

 昨日あのように平和祈願祭並びに戦争犠牲者慰霊祭をご一緒にお仕えさしてもらいました。
 いつも思うことなんですけど、人間誰しもすべての人は、「仲ようしたい。幸せでありたい」あの人もこの人もと。気の毒な人を見れば、「ああ気の毒にな」と思えるそういう神様の心を皆頂いてる。
 ところが、戦争のように残虐なことが簡単に出来る、という「もろさ」というものも人間またある、もろいんですな。それは戦争という大きな国家間やら、民族間でカッーとなってする。一人一人の人間はみな人殺したくないのに、人を傷つけたくないのに、傷つけられたくないのに、それが、集団ヒステリーというか、マインドコントロールにかかるというか、ウワーと大きな大きなうねりを持つのね。怖いことですな。そうすると、自分だけ嫌とは言えない。ああなってきたらなね。
 五十数年前は、みな否応なしに、「赤紙」いうてね。通知が来る。「お国のために頑張って参ります」いうて、それで、奥さんも子供さんも「バンザイ、バンザイ」いうて送るんやけども、後、裏で泣いてるのね。しかし、表面上ではお国のために主人が、あるいはまた、我が子がお国のために、大君に召されて「バンザイ、バンザイ」と送られていく。ニッコリ笑うて、日の丸振るの。それが終わった後、眠られんで、眠られんで、涙で枕はグッショリに濡れてる。怖いことやなと思う。国が悪いのか、一人一人が悪いのか。それを先導しよるのが悪いのか解らん。そんなんが複合するんやろうな。
 この平和な時で言えば、この間あったサッカーのフランスワールドカップの「オレ、オレ」言うやっちゃ。興奮してもうて、ウワーと。大いに興奮したら、それでスカッとするんやろうけども、あれ一つ見てても、平和やったらええけども、スポーツやからええけども、あのエネルギーが違う方へ回りよったら、怖いやろうな。これは大変なことやろうな、という思いをさせられる。
 そういう面で人間というものは、不完全であり、もろくもあり、流されてしまうというものを皆それぞれ持っているので、しっかりとした自分というもの、難しいことを言えば、自己確立が大切です。
 何で確立するかというと、神様に根を張っていく。浮き草にならない。神様に根を張っていく生き方をしかっりさせてもらわんと、怖いことやなと。五十何年前の話しではなしに、今もあちこっちでやってますわ。あっちこっちでやってる。また、ここでやっとるか。またあっちでやっとるか。というような案配ですな。ほんとに怖いことやなと思います。一人一人が、しっかりと神様に根付いて、自己確立をさしてもろうていくいうことが、大切なことかと思います。有り難うございました。

(平成十年八月二十四日)