トップページ 写真館 本・ビデオ おかげ 扇町教会とは リンク

「成功」と「幸せ」とは違う

 金光様に、「私は長い間信心させてもらっていますが、貧乏で困ります」と申しあげたら、「貧乏といって、食べない時があるか」とおたずねになった。「いや、食べられないことはありません」と申しあげたら、「いくら金や物を積み重ねていても、食べられないことがあってはどうにもなるまい。健康でご飯が食べられれば、それが金持ちと同じではないか」と仰せられた。(『天地は語る』二八七)

 世の中、一般社会には、金持ちの人、貧乏の人、成功する人、成功しない人、様々な人々があります。それで、成功してない者は「成功者はええな」、貧乏人は「金持ちええな」と、このように思う。そうしてみると成功する人、せん人も、働くということにおいてほとんどの人は、やはりそんなに格差があるわけではないんですわ。
 人間一日二十四時間あって、寝る時間もいる、食べる時間もいる。色々な時間がいる。だから、一生懸命に働きましたいうても、そんなに格差があるわけではない。しかしそういう中で、ぜひとも出世したいんじゃということで、人が八時間働いているとこを、十時間働いたとする。そうすると、二時間余計に働くはな。そうすると、一年経ってみると大変な格差が出る。真剣に努力をする人はそれだけに、成功していく確立というものは高いと言える。
 ほんなら、「朝は朝星、夜は夜星」として働いたら、必ず成功するのかというたら、その保障もない。駆けずり回って、這いずり回って、「働きました。努力しました。」と言われても、成功するとは限らない。
 そいう意味で、世間では成功する人とか、しない人とか格差を付けたり、あるいは、「羨ましいな」と思うたり、また成功した人は下の人を見て、「見てみい、わしはこんだけ成功したんじゃぞ」と思うたり、また、社会はそいう比較があって、「あんなんなったら、ええのにな」「大きい家に住めたらええのになあ」「ベンツ乗れたらええのになあ」と、そいうふうに思う。
 ところが、なんでも器用な人と不器用な人がありますねん。向き、不向きいうのがありましてね。
 それは、私勉強の時思うた。学生の時分に一回サッと覚える人とね。「ホンマにもう、一生懸命にやるんやけど、なかなか覚えられへんな」という人とありましてね。そういう、持って生まれたものがありますねん。サッサと覚えられる人と、一生懸命にやるんやけど、なかなか覚えられへん人と、色々なタイプがありましてね。すぐ覚えられる人は、あんまり努力してへんのに、シャッと、ええ点取りよるんやな。ええ点取ったら、褒められるわな。ええ点取られへんかったら、「お前は何やっとんじゃ」と。これが世間というもの。それが世間の価値観でもある。
 ですから、要領のええ者は、「出世する」というようなことで、それを羨ましく思えたり、また出世したら、大きな車乗ったり、大きな家住んだりいうことになってくるんでありましょうけども……。


 そんなら、信心したら成功するんかいうたら限らない。世間で言う成功するんか言うたら、限らないんですね。その人の持ち味いうか、質によって、なんぼ信心しましてもね。世間でいう成功をするとは、限りません。
 そうしましたらね、「なんや信心してるの、つまらんじゃないか」ということになる。ところが、大事なことがある。信心の「成功」と「幸せ」と、世間でいう「成功」と「幸せ」とは違うの。そこがごっちゃになるのね。
 なんぼ大きな家に住んでても、家の中冷たかったら、なんにもなれしませんやろう。「上手の手から漏れる」言うてね、スカーンと世の中ひっくり返ったり、「まさか」ということが起こったり、そうすると、要領のええ人は逆に心配ばかりしてしまう。


 私の金光教の先輩の先生で、アメリカの大学へ留学を命ぜられて、数年間行かれた先生がいてる。一応、そんなんに選ばれる人やから、出発の前に英語も勉強する。それで、その大学へ留学をした。
 同じように、日本からその大学へ留学をした人がありまして、その人は金光教とは関係がなかったんやけども。その人は、行きしなから、英語バリバリ。それで自分は自信失うてしもうた。一緒について行く人がね。英語バリバリで、自分とその人と比べたら英語出来へんねん。「ウワー、これ行ったら苦労するな」というのは見え見えなの。それで、向こうへ行った。
 その人はもう身に付けた英会話をワーとやってる。自分はなかなかそうはいかん。数ヶ月経たんうちに、その英語バリバリの人が、ノイローゼになってしもうた。日本でやってる英会話と、現場の中での日常会話とは、違うの。「こんだけ勉強したのに、こんだけやってきたのに通じない分からない」と思うた時に、ポキッとその人折れてしまった。
 ほんでその先輩、自分も通じへんのやから、「はあ、やっぱりあかんかな」自分はノイローゼにはなれへんのやけども、自信を無くしてもろうてるのね。「通じへんな」と思う。
 そんなある日、向こうの地元の教会へ参拝さしてもろうて、じっとご神前で御祈念をさしてもろうた時に、神様からお知らせを頂いたというか、ふっと「同じ人間じゃ」。「アメリカ人もな、日本人も同じ人間じゃ」と。「はあ、そうか」「英語が先にあるの違うんじゃ。人間が先あるんや。言葉が先あるんじゃない。人間が先にあるんじゃ」ということを気付かしてもろうた。
 それに囚われたらいかんと思うた時に、逆に「自分は英語をしゃべることは出来んのじゃ」と思うて、白紙に戻して、謙虚に、向こうが一体何を言わんとしてるのかを、心で聞こうとした。こちらが向こうへ伝えるのも、手振り足振り、一生懸命に伝える。段々、段々向こうへ伝わってきてね。知らず知らずの内に日常会話が覚えられてきて、もちろん日本で勉強して行ってるんですよ。そうじゃない、現場の人と人との触れ合いのところにおける、日常のほんとの触れ合いの出来る言葉を、ずんずん身に付かしてもろうて、おかげでノイローゼにならんで、済ましてもろうたという話を先輩から聞きました。全くその通りであります。
 もう一人は英語バリバリで成功者。こっちは英語余り出来ない不成功者かもしれないけども、信心さしてもらうことで、立ち行かして頂くということがある。ところが世間では、「信心してたのに、一つも金持ちになれへんわ、成功せえへんわ」という。そっちへすぐ目がいってしまうんですけども。


 そうじゃない、茄子は茄子とし、キュウリはキュウリとし、あるいはメロンの人もあるかわからんへん。メロンはメロンとして、立派な良い働きの出来るメロン。そやから信心して、立派なメロンにならしてもらわないかん。目先がパッパと見える人もあればな。ところがかえって目先の見える人は恐い。信心をスポッと外れる。自分の知恵でスッと走ってしまうでね。これは恐いことなの。
 『天地は語る』の四百節の御理解には載ってませんが、教祖様のみ教えに「切れる刃物はこぼれる。この方は切れず、こぼれずじゃ」という教えがあるんですね。ほんとにそいう意味で、その価値やね。「わしは成功したんじゃ。ホレ見てみい」いうのは危ない。スッコーンとひっくり返ってしまう。惨めをせないかん。大いに成功出来る質の人はな、大いに成功さしてもろうたらええんでありますが、その成功さしてもろうて、どうなのか。いよいよ謙虚にならしてもらう。いよいよ成功さしてもろうたそれによって、お役に立たしてもろうていくということ。
 また、社会でいう成功をせなんでも、その成功が問題じゃない。一人の人間として、お役立たしてもろうていく、そいうことが大切なんですな。
 社会の物差し、量りで計る成功とか、不成功とかは、信心の世界では無いんですわ。それをもってしたらいかんのですな。日々有り難う、嬉しく、有り難く、生き生きと生活すること。
 千畳敷を持っても、寝るのは一畳ですわ。千畳敷の座敷を作っても寝るのは一畳ですよ。山海の珍味出されてもね、二の膳、三の膳、出されてもね、胃袋は一つよ。食べられへん。私なんかこの頃ちょこっとしか食べられへん。摘むだけや。「もったいないな」と思わないかん。「ほんなようけ(沢山)、入れへんが…」言うて、なんぼようけ、ご馳走出してもろうても、ご馳走ならべても、お腹に入るのは、一人の胃袋。としてみたときに、一膳のご飯が有り難う頂け、休ましてもらう一畳が、有り難う思わさして頂き、お与え頂いてる御用が有り難う思わさして頂く。それが信心いうことであろうかと思います。有り難うございました。

(平成十年十一月十九日)


常に人間は差別をして生きようとする

 大阪に大阪府宗教連盟いうのがありましてね、大阪府下の各教会やら寺院、ちゃんと宗教法人に登録されておる各宗派の集まりがありまして。年に数回、色々な研修会が持たれるんですが、昨日それがありました。
 どういう研修会かと申しますと、部落開放の差別を無くすための研修会です。まだ、今日でも部落の出身者に対する差別がある。ということが問題になってまして、それが巧妙に、興信所を使うたり、探偵者を使うたり、巧妙に部落のことが裏で取引されたり、多くの企業が部落出身者を差別、疎外しておる事実がある。表ではほとんど差別がないように見えてるけども、実際の裏のところには、多くの差別がある。という話を実例を挙げて、るるあったんでありますが。
 私は梅田に住んでおりますから、小さい時からそういう部落の人たちの事を知らず、大きくなって知ったんであります。「はあ、そいうことがあるのか。穢多(えた)とか、非人とか、四つ足やとか、そいうことがあるんだ」ということを大きくなってから知りました。
 余りそいう差別のことに関心が無かったんでありますが、段々に勉強さしてもろうてるうちに、大変な差別があるということ。差別の為に自殺するという人が出てきたり、愛する者同士が、結婚出来なかったり、勉強が出来ても、就職さしてもらえなんだり、というように未だにある。今はそれは表に出ないんですけども。ですから昨日の研修会での話しでは、興信所も巧妙に暗号を使うてるの。この人は部落出身者と書いてたら、興信所の報告書に書いてたら、いっぺんに挙げられますからね。でありまするんで、記号を使う。記号を使うて、報告したりするようなことがある。という事実が挙げられまして。
 講師に部落開放同盟の委員長が来てお話なさった。ご自身も部落の出身者でありまするけども。その人が最後の方で言われた。その人はもう五十代のお方。
 「もう、私の子供では、もうあいつは、穢多(えた)や、非人やと言うて指を指されることはないでしょう」と。一生懸命に運動して、平等ということ。差別のない社会を作っていくということ。部落開放をするということ。一生懸命に取り組んで、あるいは政府も、世界中も差別のない人権というものに取り組んでいる。
 「もう私の子供の世代には、もうそんな、あいつは穢多じゃ、非人じゃと言われることはありませんし、もう知りませんし、そいう表だった差別はありませんが、形を変え差別が次々と出てくるでしょう」と。「それは部落開放だけではなしに、また形を変えた差別というものが出てくると思います」という意味合いのことをおっしゃってました。私もその通りやなという思いがする。


 人間というものは、なんで差別したくなるんでしょうな。
 どこかで優越感を持ちたい。「あいつより、ワシは偉いんじゃとか。ええんじゃとか」優越感を持ちたい。また逆にひがみも持つ。
 面白い話があってね。私が若い時にね、ある人が、
 「ワシ車持ってんねんで。押木持ってへんやろう。」
 「持ってへん」
 「今日び、車もよう持たんと」言うて、
 「別にいらんがな。そんなところで価値観持ってへんが、ワシわ。ほんなもん、いるかいな」
 それが後日会うたら、他の人のことを
 「あいつな、ベンツ乗ってはんねん。こんにゃろう」言うてな。面白いな。
 車持ってへん者に対しては、優越感を感じ、自分よりええ車持ってる人に対してはひがみを感じ、面白いもんじゃなあと見てて、難儀なこっちゃな、この人は困った人やなと……。
 学校でもそうやね。どこそこ大学出てるとか、「あの人は東大やから…」あるいは、行ってない者に対して「見てみい、わしは大学出てるんやでとか」な。常に人間は差別をして生きようとする。言葉で言うたらいくらでもある。「あいつは田舎もん」これも差別やな。あるいは「女のくせに…」男尊女卑の差別でしょうな。常に人間が生きている中で、差別をして生きて行こうとする。同じ神の氏子であるのに…。
 例えば、大学出んでもええやん。それぞれの生き道で、自分がそれぞれ何を大事に生きてるんかという、それをしっかり持たせてもろうたらええねん。勉強好きな者は、大学行けばええし、勉強嫌いな者は、別に大学行かんでもよろしいが、その代わり違う方で、しっかりとお役に立たしてもろうていけばいい。
 どうしても差別をしようとする。そいうものがどうしても人間の中にある。そやから「前々の巡り合わせで難を受ける」とか、「ご無礼お粗末」だとかいう、教祖様がおっしゃる、天地に対してだけではなしに、人と人との関わりの中においても、差別をしてたりする、これはほんとに気を付けんといかん。
 これは、自分で気が付いてませんねん。やってる本人、端から見たら「あれ差別やな」と感じるやけども、自身は気が付きませんのですな。面白いもんじゃ。
 そいう意味では、部落開放の委員長「私らの小さい時のような差別は無くなるでしょう。しかし、部落問題だけではなしに、いつの時代でも、色々な形を変えた差別があります。ほんとの意味での人権、ほんとの意味での宗教、信心という、人を皆平等に扱う。命から物事を見ていく信心というものを、ぜひとも広めて頂きたい」という意味合いのことを、おっしゃいましたが、「正にその通りやな」と、聞かして頂きました。
 差別するつもりやないけども、差別がある。しようとする。それぞれ人間の中に潜んでおる我情我欲の一つが、形に現れたものでしょうな。それがどうしてもあります。気をつけさしてもらわないかんことやなと、お話を聞きながら思いました。有り難うございました。

(平成十年十一月二十五日)

この世にいらん子は誰もない

 懐妊中に、考え違いをして無礼をしたり、間引こうと思う者もあるが、神からお与えくださるだけは産んで養育するがよい。金は人間の力で調えられるが、子供は神のおかげでなければできないものである。子を産む者は、神のご用を勤めると思って辛抱すれば、これが信心になる。(『天地は語る』三一六)

 子供が大勢できても、人間考えで間引くことはするなよ。神は、人間の寿命があるのとないのとは、よく承知している。人間ではそれがわからない。寿命のないものなら神が引き取ってやる。(『天地は語る』三一七)

 父から聞いた話しなんですけれども、戦前のご信者さんで五人さんのお子さんをお持ちになったご家族があった。昔から「貧乏人の子沢山」言うてね。皆、往生してはった。その御主人は、面白い人で、おまけに男の子ばっかりやねんな。長屋の片隅で住んでるの。
 「五人も子供いてたら、メシ食えまへんわ」と。どうにもならん。
 「かさが高うて、ようけメシ食いよって」。そう思うてね。
 神様に「一人、間引いてください」言うて一生懸命にお願いしたん。
 「どうぞ、一人…。多すぎます。」
 そうするとね、長男が病気になった。
 「あれは、長男でございまするでな。あれは間引いてもろたら困ります。ちょっと他の子にしてください。」とお願いする。ほんなら次男が病気になった。
 「あの子は、一番頭のええ子でございまして。あの子は間引いてもろたらどうもなりません。」ほんなら三男が次、病気になった。
 「あの子はよう動く子でありまして、どうぞ、あの子は間引いてもろうたら困ります。」
 ほんで、四番目「あの子は親孝行な子でありまして…」
 五番目、「末の子はかわゆうございまして…」
 五人とも全部、一周回った言うねん。それを初代の先生にお届け申し上げた。
 「お前はとことんのアホやの。底抜けのアホやの」言うて怒られた、いう話を父から聞きました。
 戦前のご信者さんは、今みたいな生活状況違うので、「貧乏人の子沢山」いうて、長屋の奥で子供がゴロゴロとな、鼻水垂らしておる。よう落語の鋳掛屋(昔、鍋や釜の修理をする職人)いうのがありましてな。「おったん、何してんのー」という鋳掛屋のあの光景みたいな。ゴロゴロ、ゴロゴロと子供がいてる。今とは考えられんような生活状況、社会状況。その中で子沢山やったら、「一人や二人、間引いてくれたらええが」という部面。これまた事実である。


 ところがさて、どの子となると。どの子もどの子も、皆大事だというのも、また事実でありますな。そうしました時に、いらん子というのが無いんやな。何処にもいらん子というものがない。どんだけ苦労かけよっても、「こんなの生まれてこなきゃよかったのに…。」そう感情的に思うようなことがあるかもわからんけれども、いらん子は誰もない。皆、大切な神様の子であり、大切な人の子なんですな。そう思わさして頂いた時に、神様の方も「しゃあないやつやな」と思われつつも、どうぞおかげを受けてくれと、願ごうてくださってるんじゃなあという思いをさして頂きます。有り難うございました。

(平成十年十一月二十六日)