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No:39
●足が動かなくなると、手を振れ

 アテネオリンピックは、日本の選手が大活躍をし多くのメダルを獲得しました。たとえ、メダルを獲得できなかっても、選手達の素晴らしい演技と根性頑張りに感動をする日々です。昨晩(八月二十二日)は女子マラソンで野口みずき選手が金メダルを獲得しました。小柄な華奢な体のどこに、あの強靱な意志があるのか、本当に感動させられました。

 オリンピックに出場出来る選手は、それぞれの種目のプロフェッショナルです。出場できなかった選手は、その何万倍もいることです。その選手達もオリンピックを目指して、苦しいトレーニングの日々を過ごしたことでしょう。その中からオリンピックに出場出来るだけでも大変なことで、まして、メダルを獲得出来るということは、それはそれは砂浜の砂粒の中から選ばれた一粒の砂粒のようなものでしょう。


 かつて、マラソンでメダルを獲得した選手が、そのトレーニングと実際にオリンピックで走る時のありようを語っていました。

 コーチの指導を受け毎日々血の出るようなトレーニングを重ね、走りに走り、やっとオリンピックへ出場。各国の選手も同様に、国民の声援と期待の重圧を受けての走りは、トレーニングの時の走りとは想像もつかない厳しいものであった。

 いよいよスタート、トレーニングの時のリズムを崩さないよう走るのであるが、各国の強豪揃いの中では、冷静さを失いかけ、国民の声援と期待の重圧のみが体にのしかかる。それをはねのけようと無我夢中で走る。

 ところが、疲労は重なり、リズムが狂い、足があがらなくなってくる。あせる、あせる。他の選手が好調に走っているように見える。『もうダメか、リタイヤか』。その時、トレーニング中に教えてくれたコーチの声が胸に浮かんだ。『足があがらなければ、手を振れ!』。この時、力いっぱい手をふることができた。すると、あがらない足があがりだした。メダルは『もうダメか、リタイヤか』の向こうにあった。『もうダメか、リタイヤか』からが勝負であった。


 マラソン選手は走るトレーニングを重ねている。走るのは足である。その足があがらなければ、走ることはできない。その時に『手をふれ』とコーチは教えた。

 『もうダメ』は、マラソンだけではない。人生のマラソンに『もうダメ』の状況にぶつかることがある。オリンピックのマラソンならまだリタイヤ出来る。しかし、人生のマラソンはリタイヤすることは出来ない。

 この人生のマラソンで『もうダメ』の状況入った時、どうするのか。人生のマラソンで『手を振る』って、立ち直れることはあるのか。実は、ここからが人生の勝負である。例えば、商売をしている人が、資金にゆき詰まり、不渡り、倒産が目前に迫った時、どうするのか。たいてい、知人を走り回って金策をする。それでも、倒産は回避出来ないとしりつつ、それをする。

 信心している人は神様に拝みたおす。けして神様を拝んでいるのではない。『もうダメ』といっているだけである。ここで、『信心の手を振る』ことをしなければならない。倒産は倒産でも、今日まで商売をさせて頂いてきたお礼を神様に申し上げ、そのお礼と、我欲なことで倒産することのお詫びを実意にすることである。この実意が『信心の手を振る』ことである。そして、今まで商売を支えて下された社員や関係相手に、出来るだけのことをさせて頂くことである。

 この『信心の手を振る』をさせて頂くと、たとえ、倒産をしても、そこで人生は終わらない。新しい芽を吹き出し、新たな展開を頂くことが出来る。これは商売だけに限ったことではない。人生のあらゆる『もうダメ』の状況に入った時に言えることである。


【一般配布 平成16年9月号 No.362「光道」より】

No:38
●友人にお金を貸したが……

 先日、遠方の若い女性の信者さんから、次のようなメールが届きました。

『こんにちは。突然ですが少し、つぶやかせて下さい。

他人を、心から信用したいと思っていても、お金が絡むと周囲は口を揃えて「返ってこないと思いなさい」と、言いますよね。わかるんです。きっと、私も他人の事なら同じ助言をすると思います。実際、どんなに親しくても騙す、騙された人はたくさんいますから。そういう時代なんですよね。けど、純粋にお世話になってる人だから、困っていたら力になりたい。と、思うだけなのに、信じたいのに、騙されたら辛いなぁと、思いつつお金を貸す自分が、憂鬱でむなしくて……。

 こんな気持ち、なりたくないなら、貸さない方がこれからも良いのかなぁ?って、思ってしまいます。裏切られる恐さ、自分自身が人間不振になるんじゃないか、という不安にかられています。今回は、まだ裏切られたわけでもないですが、○日に返金してくれる予定です。まあ、金額はとびきり大きくはないですが、私たちにとったら、大きいかな。なにせ、初めての経験なので……。』


 人間は一人ではいきていません。親しい人がいてこそ生きられます。また、親しい人が病気にでもなれば、お見舞いをしたり励ましたりします。困った問題には相談にも乗ります。アドバイスもします。助けてあげたいと思います。それでこそ人間です。

 人間が生きてゆく上で、様々な難儀や問題に出会います。その中で、大きな難儀に『経済の問題』があります。『金の無いのは首の無いのと同じ』と言われたり、『借金地獄』という言葉もあります。お金が無ければ、生きる上の『衣食住』もままなりません。借金が返済することが出来なければ、夜逃げをせねばなりません。社会生活はもちろんのこと、家族さえバラバラになります。そういう意味で『経済・お金』は社会生活をする上の基盤でもあります。 まさに、『金の無いのは首の無いのと同じ』です。

 そこで、経済的に行き詰まって、『首が回らない=経済的に行き詰まった状態を言う』ことになると、やはり、友人に借金を申し込みます。ところが、頼まれる友人も、遊びたいのを遊ばず、買いたい物があっても辛抱して貯めたお金です。非常事態の蓄えであることもあります。その大切なお金を、友人の窮状を思い貸した女性からのメールです。

周囲の人達が、「返ってこないと思いなさい」と、言います。何故言うのでしょう。返せるぐらいなら、友人に借金はしません。いよいよのことなのです。騙すつもりはなくても、実際に返せないことを、周囲の人は知っています。それでも、彼女は友人の難儀を見過ごせないので貸しました。

ところが、不安になり、友人さえ疑う自分が嫌になってきているのです。


 彼女にメールの返信をしました。

お早うございます。お体はいかがですか。親しい人にお金を貸すことについて、大切な心構えを述べましょう。参考にして下さい。

(1)友人にお金を借りねばならないほど困っているその人が、早く立ち直れるよう、神様に御祈念をし続けること。

(2)親しい人の難儀に、お金の融通出来る自分を有り難く思え、神様にお礼を申すこと。

(3)その人にお金を貸したことを、他の人に言わないこと。折角の親切が、その人の信用を失わせ、うらみが残る。人にお金を借りることは、大変な恥であるから。 

(4)その人の難儀のお役に立ったのであるから、そのお金は神様にお供えさせて頂いたと思うこと。

(5)友人に借金をしないですむよう、神様に信心して『経済の良い巡り合わせ』を頂きつつ、無駄使いの無い生活に心がけること。


 彼女にはこのように返事をしましたが、友人の経済の行き詰まりの原因は分かりません浪費をして、カードローンやサラ金に手を出したのか、あるいは、身内の病気で急な入り用が出来たのか。

 しかし、今の世の中、簡単にローンに手を出したり、借金をしていますね。金銭に麻痺してしまっているのでしょう。

 お金は、自分の働きの甲斐性によって得るものです。自分の働きの甲斐性をよく分かり、その中での生活をするよう、心がけることが大切ですね。友人に借金をして、大切な友人を困らせたり、失ったりしたくないものです。

 その後、彼女から次のような内容のメールを頂きました。

「この前のメールの件。無事、お金を貸した方の問題も解決し、お金も返って来ました。ありがとうごさいました。これからは友人の立ち行きを願わせて頂きます。」

【一般配布 平成16年8月9日号 No.279「光道」より】

No:37
●還暦を迎えて

 ♪むらの渡しの船頭さんは♪ ことし六十のおじいさん♪ 

   ♪としはとっても♪ お舟をこぐときは♪ 

  ♪元気いっぱい魯がしなる♪ それギッチらギッチらギッチらこ♪

 幼いころに教えて頂いた童謡である。この船頭さんは『ことし六十のおじいさん』である。この船頭さんの年を迎えさせて頂いた。八人の孫を頂いているので、『おじいさん』には違いないないが、今日の社会での六十才は、まだまだ『はな垂れ小僧』と言われそうである。

 しかし、人生の大切な『節』であることには違いない。この『人生の節』を迎えて、改めて自身の命の源、命の歩みを振り返り、『ことし六十のおじいさん』は一生懸命にお役に立つ生き方をすすめてゆきたいと願うものです。


 私がこの世に生を受けたのは、太平洋戦争が激しさ加わった昭和十九年(一九四四)七月十六日大阪市北区北扇町(現在の北野病院の別館)に父親五十五才、母親三十三才(後妻)の間に生まれた。その日は大変に暑い日であったそうな。父親ははや当時の初老の入り口に、母親は生まれながら身体障害者(両足が極度の内向足で歩行に不自由)であった。

 戦争遂行のために物資は乏しく、食料も配給、都会の人々は食べることさえ事欠く有様。それでも、妊婦には特別配給があったそうな。しかし、その特別配給も家族の食料になった。結局、生まれながらに栄養失調。母乳もでず、重湯で育てられたとか。

 両親は金光教扇町教会で布教をしていた。布教など出来る社会状況ではない。国家挙げて戦争遂行の最中である。本土も空襲の危険が迫り、北野病院が空襲の類焼の災いを受けないようにと、その周辺の建物が壊された(建物疎開)。扇町教会も壊された。近所の風呂屋へ仮の教会を持ったが、昭和二十年六月の大空襲で、この風呂屋に直撃弾を受ける。防空壕で難を逃れた両親には、一食の食料も無く乳飲子(母乳もミルクもない)とその『おしめ』だけであったとか。

 以来、初老の父親、不自由な母親は乳飲子を抱え空襲の火の海の中を、『この子を死なせてはならぬ』と逃げまどい、神様に祈り続けた。空襲に焼け残った知人宅に一宿一飯の恵みを受け、転々と流浪の身を養った。終戦となり、やっと西淀川区の野里の地に、仮の住まいを見つけ、教会復興の願いを神様にかけ続けた。


 両親が物語りしてくれたこの話を思い出す度に、胸が熱くなり、亡き両親のことを思い出す。この物語が私の命の原点であり、人生の源である。平和で豊かな現在でさえ、出産育児は大変な苦労であるのに、あの状況下にあって、産み、守り、育ててくれた両親に、いくらお礼を行っても過ぎることはない。

 両親の神様への祈りのもと、教会は昭和二十四年現在地に復興が出来た。建物は屋根に瓦なく、天井なし。壁に土なく、床に畳みなし。窓にガラスなく、電気も水道もない有様であった。しかし、両親の祈りのこもった教会は私には御殿のように思われた。


 時流れ、想像もつかないほど豊かな社会となり、思いもよらない出来事が次々に起こって時代を積み重ねている。私もまた、親の跡を継ぎ、金光教教師を拝命して三十八年、体も幾度か死の淵に立ち、様々な事柄に出会いつつも、その度ごとに、良い導きを頂き、今日の日まで、かつかつになんとかかんとか、神様に使って頂いているのも、この両親の深い祈りあってこそであり、様々な出会いの中でお育て頂いてのことである。

 『ことし六十のおじいさん』となり、八人の孫に囲まれ、人から「しあわせですね」と言われる。この幸せも、あの物語の両親あってのことである。せめて、今からの人生は恩返しの人生でありたい。ちっとは、両親にほめてもらえる人生を歩みたいものである。


【一般配布 平成16年6月28日号 No.278「光道」より】

No:36

●山の彼方の空遠く……

 あるマンションの主婦の井戸端会議。

 「あのネ、A棟の○階の△△さん、また、お腹が大きくなってるよ。」

 「また、違う男の人が、部屋に入り込んでいる」

 「エ……、前の男の人、出ていったばかりやないの……」

 「前の男の人と仲良かったのにね……」

 「彼女、三人の子供いてるのと違うの……」

 「……三人とも、父親が違うそうよ……」

 「へ……ようやる……」

 この井戸端会議出てくる△△さんは、きっと『ふしだらな女』というレッテルが貼られていることでしょう。しかし、それだけで、この人を評価していいのでしょうか。

 △△さんは『幸せを求めての旅』をしているのでしょう。「この男性と一緒になれば幸せになるに違いない」と、身も心も或いはお金も委ねた結果、幸せにはなれなかった。次に「あの男性と一緒になれば幸せになるに違いない」、「こんどの男性こそ幸せをくれるに違いない」。

 このように、△△さんは『幸せを求めての旅』をしているのでしょう。『カール・ブッセ』の『山の彼方の空遠く 幸い住むと人の云う 嗚呼、我人と尋(と)めゆきて、涙さしぐみ還り来ぬ 山の彼方になほ遠く 幸い住むと人の云う』の詩のとおりではないでしょうか。△△さんを『不幸な人』と言えても、『ふしだらな女』と言えるでしょうか。


 『幸い』は『山の彼方』にあるのではないのですね。それぞれの『心』にあるのです。『お金があれば幸い』と言いますが、お金のために身を滅ぼす人も多くあります。お金を持ったために家庭を崩壊させた人も多いです。お金を持つと気儘になるからです。欲しい物が手にはるからです。そのかわり、働く喜びや人と人との絆を失うことがあります。結婚をしたら幸せと言いますが、結婚によって相手を縛ったり、嫉妬心が生まれ、そこから『愛憎地獄』が待ち受けています。

 『ああなれば、こうなれば』と思いますが、それは、『山の彼方の空遠く……』なのです。人生の旅路に様々に起こってくる事柄、出会う事柄、時には、避けたいような事柄の中に『幸せ』の『原石』があります。それを光らせてゆくのが、それぞれの『心』なのです。

 △△さんは結婚という原石を、磨き上げられたダイヤモンドと勘違いしているのでしょう。ダイヤモンドに磨き上げるのは、△△さん自身です。

 磨き上げるエネルギーを神様から頂き、心のあり方をととのえ、『磨き方』を教えによって導かれるのです。

 『幸い』は『山の彼方』にあるのではないのです。

【一般配布 平成16年5月24日号 No.277「光道」より】

No:35
●神様の出番をじゃましていませんか

 〜『人間親切』から『信心親切』へ〜


 私たち人間は有り難いことに、命を下された天地金乃神様から、一人々生まれながらに素晴らしい心を授けて頂いています。その素晴らしい心の中に、『かわいそうなと思う心』があります。気の毒な人をみれば、何とかしてあげたい。幸薄い人の話しを聞けば涙を流します。教祖様はこの心を『神心』と教えられ、そのような人間を『神の氏子』と言われ、『神の分霊』とも言われています。

 他人であっても、災害や戦災に遭っている人達を助けようと、被災地に出かけ人々のお世話をする人、高齢者や障害者のお世話をする人、いろいろと難儀をしている人達のお役に立つような働きをしている人が多くあります。このようなボランティアの活動は大変に尊い活動で、『神心』のしからしめるところからでしょう。

 このボランティア活動で大切なことは、『せめてものこととしてのお世話』なのです。マザーテレサがインドの地でボランティア活動された原点は、貧しく路上で死んでゆく人達を、せめて、日陰で息を引き取らせてあげたい、との思いからです。マザーテレサはそれ以上のことは出来なかったのです。そこで、死んでゆく人のために、神に祈ったのです。

 お世話をする人の『無力』を自覚しているのです。それでも、助かってもらいたいとの思いから、『神に祈る』こととなります。また、お世話を受ける人にも、『神の導きを受けるように』と、神に出会わせておられる。


 かわいそうな人の中には、災害や戦災に遭っている人、高齢者や障害者ばかりではありません。経済や仕事、就職で困っている人、家庭不和の人、家庭内暴力、不倫等様々です。このような人の難儀に対して、人生の相談室のようなものがありますが、アドバイスや資料の提供はありますが、直接に手を出して助けることはありません。

 ところが、家族や肉親、親しい人の難儀となると、『せめてものこととしてのお世話』や、アドバイス、や資料の提供ではすみません。必死になって助けようとします。

 すると、『かわいそうな』という心の他に、『悲しい心』、『愛おしい心』、『情けない心』がわき出てきます。これらの心が強く働きだすと、助けようとする人、される人とが憎しみあったり、時には無理心中をしたり、殺害するという悲劇が生まれます。こうなると、一生懸命に助けようとすればするほど、難儀なこととになります。疲れはててしまいます。『かわいそうな』という『神心』も何処かへいってしまい、その反対の憎しみの心になることもあります。


 ここに、人が人を助けるには限界があります。そこを教祖様は『わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。』と教えておられます。この『ほっておくような気になって』とは、『神様にお出まし頂け』と言っておられるのです。

 せっかく神様が助けようとしているのに、自分がシャシャリ出て『神様の出番を邪魔している』ことが多くあります。人を助けになられるのは、神様なのです。

 『信心してやれ』とは、子供である場合、子供に代わって、神様へ真心の報恩報謝をしてゆくことです。信心の出来る年齢であれば、神様へ心を向ける術を教えてやるということです。


 気の毒な人をみれば、何とかしてあげたい。との素晴らしい『神心』を現す時、『人間親切』ではなく『信心親切』をさせて頂きたいものです。親切にされて喜び、親切をさせて頂いて喜ぶ世界を生み出したいものです。


【平成16年5月号No.358「光道」より】

No:34
●欲を出して信心しましょう

 信心する人は欲を出してはいけないと、たいていの宗教は言います。しかし、人間から欲を外すと生き生きと生きてはゆけません。欲があるから元気も出るのです。仕事は生き生き取り組みたい、収入も多くありたい。家族中健康でありたい、仲良くありたい、皆から尊敬もされたい。

このような欲がある人間ですが、その欲が実現出来る方法を案外知らないのです。ほとんどが、欲の実現には『濡れ手で粟のつかみ取り』と思うのです。そうはいかない。バブルの時にボロ儲けした人や会社がどのようになったか、記憶に新しいでしょう。

 『人間のソロバン』をはじいたら、百万円の土地が一週間後には百五十万円になったら、土地に手を出すのは当たり前です。株も同様に言われました。この『人間のソロバン』は危ないですね。このソロバンをはじいた人は、高い塀の中にいているか、社会の片隅で二度と世間に出られなくなっていますね。

 『濡れ手で粟のつかみ取り』の欲は危ない、だから、欲を出さず、ひっそりと生きようとしているのも、元気のないことです。『欲を出さず、ひっそりと生きる』と、小さくてもささやかな幸せがある、ということであれば、それはそれでいいのですが、残念ながら、そうとは言い切れません。人間は社会という大きな波に浮かんでいる小舟です。社会がうねると、たちまちのうちに沈没してしまいます。また、人間は生身です。病気や事故など、「ナニ!」というような出来事に出会うものです。それには、やはり、沈没しないようにせねばなりません。

 ホームレス言われる人が大変に増えましたね。昔もルンペンと言われる人はいましたが、その人は特殊な人でした。しかし、今のホームレスと言われる人達は社会の階層になりました。社会存在になりました。ささやかな生き方ではこの層に入る可能性が出てきました。

 ○

  『濡れ手で粟のつかみ取り』ではなく、社会の波に沈没せず、仕事は生き生き取り組み、収入も多く、家族中健康で仲良く、皆から尊敬もされる生き方があるのです。それには『良い巡り合わせ』を頂くことです。

 時々、テレビや雑誌などで、生き生きしている人にのインタビューをしていることがあります。その人は、「努力はもちろんのこと、人や時、場所等『良い巡り合わせ』のおかげである。」と言われている。「ラッキーだった」とも表現しています。そう、『ラッキー』『運が良い』と言うことが、人生を大きく支配します。

 『女房の不作は一生の不作』(その逆も)という諺がありますが、この巡り合わせが悪い(リズムが合わない。浪費癖、女グセ男グセが悪い、病弱等)と、人生の基本である家庭生活が無茶苦茶になります。また、住んでいる処も縁です。日常生活に適さない環境(騒音、湿気、公害等)も困ったものです。

 誰しも、『良い縁』『良い巡り合わせ』を望みます。初めのうちは、『良い縁』であっても、途中から『悪い縁』となることがあります。


『良い縁』は『良い巡り合わせ』によって生まれます。『巡り合わせ』は、動いているのもが『巡り合う』ものです。

大宇宙を動かし、大宇宙に無数に点在する星々の中、唯一、命の星、緑の星、地球を生みだし、この星に様々な生物を宿し、『命を生かす巡り』なしておられる、根元の神様、天地金乃神様の存在を知ることです。

 この神様は様々な生物の中に、神の心と働きの出来る『神の氏子』を『万物の霊長』として命を与えられました。私たち人間は、このような天地金乃神様の大宇宙のご意志のもとに生き、生かされているのです。一人々の命は大宇宙の命なのです。
 このことに目覚めた時、神様のご意志に感謝し、自分の働きは、神様の願いを実現してゆくことにある、そのことが自分の魂の助かりなり、天地に響く命の営みとなります。天地総掛かりで『良い巡り合わせ』をつけて下さいます。
 これらのことは、何も大層なことではありません。『わが心を神様に向け』『天地に生かされている』お礼をして、日々の手元足下のところを実意に勤めることです。すると、大難は小難に小難は無難にお祭り変え下さり、様々に『神様からのノック』を頂くことが出来ます。生きることが有り難くて。有り難くて仕方のないようになります。

 ふと気がつくと 社会の波に沈没せず、仕事は生き生き取り組み、収入も多く、家族中健康で仲良く、皆から尊敬もされるようになっています。誰でもできます。難しいことはありません。


【平成16年4月号No.357「光道」より】

No:33
●月例祭は神様のお日柄日・おかげ日

 二月六日、天地金乃神様の月例祭の日の朝の御祈念の際、

 「今日は天地金乃神様の月例祭をお仕えさせて頂きます。日々広大なおかげを頂き有り難とうございます」と、申し上げると、神様から、

 「月例祭と言うな、『おかげ日』と言え。」との お知らせがありました。

このお知らせを頂いた時、神様はなぜこのように言われるのか、祈りながら、なぜ『月例祭』ではいけないのか考えさせて頂くと、どうも『月例祭』は、教会行事の祭典の感があり、参拝される信奉者の方も「今日は教会の月例祭だから参拝しょう」ということで、 長年の間に月例祭が『教会の行事・祭典』に教会側も信奉者もなっていると、神様は指摘をされたのだと気づかせて頂きました。


 月一回の天地金乃神様の月例祭(六日)は扇町教会の信奉者の『天地金乃神様のお日柄』です。天地金乃神様が両手を広げて待ち受けて下されている『お日柄』です。ご祭典は儀式ではなく、ご縁を頂きおかげを頂いている信奉者が、天地金乃神様のご威徳をお讃え申し、お守り頂いていることにお礼を申すことです。

 すると、両手を広げて待ち受けて下されている天地金乃神様と、ご威徳をお讃え申し、お守り頂いていることにお礼を申す信奉者が、しっかりと結びつき、天地金乃神の『神比礼』がより一層に頂けることになります。そのようなところから、「月例祭と言うな、『おかげ日』と言え。」と教えられたのです。

 教祖生神金光大神様の月例祭(十六日)、ご先祖の月例祭(二十六日)、『いのちの御礼祈願祭』(月一回の日曜)も同じことです。このことを意識して参拝させて頂くと、月例祭が『おかげ日のお日柄』となります。

 教祖様は、『日切りをして願え』と教えておられます。この『おかげ日のお日柄』を『おかげを頂く日切りの日』と、真剣な参拝をさせて頂くと、その人に『神比礼』は輝き、人生を歩むうえに『良い巡り合わせ』を頂き、おかげの日々を送らせて頂きます。


【平成16年3月号No.356「光道」より】

No:32
●ストレス解消法

 近頃、『ストレス・ストレス』という言葉をよく聞きます。『ストレスが溜まって頭痛がします。』『ストレスで胃が痛みます』『ストレスでイライラします』『ストレスで寝れません』。あげくのはては『ストレスでウツ病になりました。生きることが嫌になりました』。

ストレス=カナダの生理・病理学者ハンス・セリエが医学に応用した言葉。
寒冷・外傷・疾病・精神的緊張などが原因になって、体内におこる一連の非特異的な防御反応。まず、交感神経の緊張、副腎髄質のアドレナリン分泌がおこり、ついで脳下垂体からのACTH(副腎皮質を刺激し、コルチゾール、アルドステロンの一部、アンドロジェンの分泌をコントロールしている。) の分泌物と、それによる副腎皮質ホルモンの分泌増加が起こる。

 要するに、『非特異的な防御反応』とあるように、誰でもが日々の生活環境や体の上で起こってくる、辛い事柄から逃げ出したいとの『防御反応』からくる、心身のバランスの狂いの症状のことでしょう。


 学校へ行けば嫌でも勉強せねばならない。結婚して家庭をもてば、相手と仲良くせねばならない。面倒な親類付き合いもせねばならない。近所つきあいもいる。子供が出来れば、お乳も飲まさねばならない、おしめも替えねばならない。子供は反抗するものである。仕事をすれば仕事の問題がある。仕事をやめれば食べてゆけない。人間はストレスの中に生きているようなものである。それでは、お金さえあって、何もしなければストレスは溜まらないか。そうはいかない。何もしないほどストレスが溜まるものはない。その証拠に、刑務所で懲罰房というのがあるらしい(おかげさまで、まだ刑務所だけは入っていないので)。その房は個室で、『なにもしないでよろしい。ご飯だけあげます』と、大変に結構な扱いだそうであるが、一番辛い懲罰であるらしい。大変なストレスが溜まるらしい。

 生きて行く限りは、様々なことをしてゆかねばならない。自分に都合のよいことは、ほとんどないと思っても差し支えないでしょう。


 仕事で行き詰まったAさんはストレスが溜まり、仕事に自信喪失し、毎朝、仕事場へ行くことが苦痛で苦痛で、ヘトヘトになりました。しかし、仕事を辞めるわけにもいきません。自分自身に『ガバッテ、ガンバッテ』と励ましながら出勤します。しかし、その顔はひきつっています。仕事場へ着く前から、体はコチコチに緊張しています。仕事に取り組もうとしても仕事ができません。周囲の目が気になります。ますます『針のむしろ』です。時には通勤電車のホームから飛び込みたいとの思いになったのも、一度や二度ではありません。この苦しみがいつまで続くのか……。

 そのような辛いある夜、やっとのことで一日の勤めが終わり、重い心と体を引きづりながら帰宅の途中、道筋にある扇町教会の前に立ち止まっていました。

 その時、外出から帰ってきた教会長に促され、お広前へ上がりました。子供の頃、母親に連れられて金光教の教会へは幾度も参拝しましたが、大人になってからは縁が切れていました。

 お広前へ上がったAさんは、何故か涙が流れて止まりませんでした。何故涙が出るのか分かりません。しかし、涙が出るのです。

 「むつかしいこと考えんと、会社の帰りにちょっと寄りなさい。ただ、神様に頭をさげているだけでよろしい。そして、毎日の教話がMDに録ってあるから、ただ、流すだけでいいから聞きなさい」との教会長からの勧めにより、退社の後に参拝するようになりました。

 一カ月、二カ月を経ても特別に変わりはありません。しかし、お広前へ上がることにより、疲れ果てた心と体に温かな『気』のようなものが流れてきて、心と体が軽くなってくるのを感じるようになりました。それからは、出社前も参拝して職場へ行くようなりました。三カ月を過ぎると、気にかかっていた周囲の目も気にかからくなり、『ごめん、私、それ以上の仕事は無理ですの』『少し休ませて下さい』と素直に言えるようになりました。

以前の『私がやってみせる』との自我は消えていました。

 半年ほどすると、心も体もウソのように軽くなり、生き生きと仕事をしている自分に気づきました。あの苦しい思いがウソのようです。これはいったい何なの……。

 Aさんは今も、出勤前、退社後お広前へ上がり、一日のお願いとお礼をされています。明るいいい顔になっています。


 『お天道様のお照らしなさるのもおかげ、雨の降られるのもおかげである。人間はみな、おかげの中に生かされて生きている。人間は、おかげの中に生まれ、おかげの中で生活をし、おかげの中に死んでいくのである。』

 人は自分の都合でお天気(自分の都合のよいこと)ばかりを望みます。人、この天地の間に命を頂いて生まれ、生活をして、そして死なせてもらうのです。生きているものにはリズムがあります。天地にリズムがあり、天地に生かされている人も命のリズムがあります。この天地の命のリズムと人の命のリズムは同じ波長なのです。ところが、人は自分の我で天地の命のリズムを無視(ほとんどが知らずに)して生きるので、ストレスが溜まるのです。

 更には、生きるということは、エネルギーがあるからです。エネルギーが枯渇すると、潰れてしまいます。人を生み、生かしている天地がエネルギーの源です。天地の神様に心を向けることにより、命のエネルギーを頂くことが出来るのです。

 また、生きるということは、様々な事柄に巡り会うのです。この『巡り会い』が悪い(事故などが代表的、人、仕事、事柄等様々)であれば、少々エネルギーのある人でも倒れてしまいます。天地を働かせておられる神様に心を向けると、『良い巡り合わせ』を頂いてゆくのです。

 Aさんは、天地の神様から命のエネルギーを頂き、教話を聞くことにより、天地の命のリズムが分かってきたのですね。有り難いことです。


【平成16年2月号No.355「光道」より】

No:31
●誰でも頂ける『神比礼』 〜『良い巡り合わせ』を頂く〜

 新年、あけましておめでとうございます。

 今年も、神様から『良い巡り合わせ』を頂かれ、『うれしく』『楽しく』『有り難く』一年間を健康で過ごされますよう、御祈念させて頂きます。


 元日には、各地の山や海で初日の出を迎えられる人が多くいます。その様子がテレビで放映されています。初日の出を迎える人の中には、暴走族に近い人も見受けられます。

雲間からご来光が現れると、その暴走族と言われている人達も、一斉に手を合わせて拝みだします。誰かがそのようにするようにと言うわけでもないのに……。

 また、日頃は閑散としている神社仏閣に初詣の人達が押し寄せ、神仏に手を合わせています。

 太陽は元日だけ東から昇られるのではありません。三百六十五日毎日々お出ましです。また、神社仏閣も常にその場所にあります。

 日頃は太陽にも手を合わさない、神仏にも手を合わさない人達が、何故元日には手を合わせるのでしょう。手を合わせている人達が、自分のしていることに気づいていないのでしょう。

 手を合わせている人達の心の中に、『今日は年の始め、今年も神様の大きなお働きお徳の中に生きてゆきます。よろしくお願いいたします。』と、初日の出に祈り、『今年も、いろいろのことがありますが、どうぞご加護下さい』と、神仏に潜在意識(人間の本性)の中でお願いしているのです。


 年の始め、今年の政治、経済、社会動向などいろいろの評論家が推測します。また、個人にしても、今年の運勢をみる人も多くあります。今年の一年間のことを知りたいのはやまやまですが、残念ながら評論も運勢も当たるか当たらないか分かりません。確かでないことに心を向けていると、不安な一年となります。

 確かなこと。それはただ一つです。『天地が生きているので、人間も生きていられる』この一つです。近頃は宇宙科学も大変に進歩し、何十億光年のかなたの天体まで分かるようになりました。しかし、どうも、あまたある天体、星々のなかで、生命を育んでいる星は地球だけのようですね。

 その地球の中に育まれている無数の生命の中で、潜在意識(人間の本性)、『今日は年の始め、今年も神様の大きなお働きお徳の中に生きてゆきます。よろしくお願いいたします。』と初日の出に祈り、『今年も、いろいろのことがありますが、どうぞご加護下さい』と神仏に手を合わせ祈るのは人間だけなのです。『神様は大宇宙、人は小宇宙』として、

『神の氏子』として人間を生かし、育んでおられる天地のお働きがあります


 『天地が生きている』『天地が意志をもって人間を生かしている』『この天地の意志が天地金乃神様』です。

生きてるものは、動き巡る。天地も動き、その中生かされいる人も、様々な出会いに巡り会う。年齢を重ねる自分や家族に巡り会う。いろいろな人に、出来事に巡り会う。それは、日々新たに巡り会っている。これが生きている『証』でもあります。

人生をより良く生きる、幸福に生きるには、努力や辛抱、災い転じて福となす逆転の発想等々大切なこととされている心構えがあります。そのとおりでありますが、『悪い巡り合わせ』になると、それが出来る人はごく希な人か、よほどご先祖が天地金乃神様に『神徳』を残して下さっている人でしょう。ほとんどは、押しつぶされてしまいます。それでも生きてゆかねばなりません。

 それには、当たるか当たらないか分からない運勢に人生をゆだねるよりも、『良い巡り合わせ』となればいいのです。何も難しいことはありません。

天地金乃神様がそのご意志で人間を『神の氏子』として生かし育んでおられるのですから、素直にわが心を神様へ向け、何なりと願ってゆけばいいのです。全ての人は潜在意識(人間の本性)の中に神様と繋がっているからです。

『おかげを受けてくれなければ、神も金光大神も嬉しくない。』

『神は人間を救い助けてやろうと思っておられ、このほかには何もないのであるから、人の身の上にけっして無駄事はなされない。信心しているがよい。みな末のおかげになる』

と、教えておられる通りです。 


【平成16年1月号No.354「光道」より】

No:30
●不思議ですね……

 今年も厳しい一年間でした。扇町教会の玄関は年中開けてあり、『思い切ってお入り下さい。胸の内を開いて下さい。また、こちらの話しも聞いて下さい』と掲示してあります。多くの人々が教会の前を通り、また多くの人々が教会の中をジッと見つめていきます。それぞれ、その人なりの人生の問題や難儀を抱えつつ、年の暮れの街を歩いて通っています。そのような中、思い切って教会に入って来られる人がいます。教会に入って来られる方の多くは、何らかの金光教にご縁がある人達が多いです。そして「もっと、早く入りたかったです」とおっしゃる。なかなか入れなかったのですね。

 教会へ入ってくる時には、いよいよのどうしようもない状態になってからですね。問題はそれぞれで違いますが、まず、自分で解決しようとする。次に、親しい人達に相談して、解決方法を求める。それでも解決しないので、専門家(医師、弁護士、街金融、易者、祈祷師等々)に縋ります。それでも解決するどころか、ますます問題は悪化し、どうすることもできず、教会へ入ってきます。ちょうど、お茶碗にヒビが入り、こね回して割れてしまい、それをコナゴナにしてしまってから、教会へ持ってきます。どこから手をつければいいのか、本人も問題の本質が分からなくなった状態です。

 このような状態で教会へ入ってきます。なんとかならないか、一縷の望みをかけて入ってきますが、問題は原型もとどめず、解決の糸口さえ見えません(見えるぐらいなら教会へ来ません)。不安の心がいっぱいです。

 そこで、私は「貴方は、『自分でも解決できない、親しい人に相談してもダメ、専門家でもダメ』、それで教会へ入ってきて、神様へお願いにきた。このことをしっかりと腹入れをして下さい。」と申します。

 助かりたいので「はい」と言いますが、このことが、なかなか腹入れができません。神様を信じて教会へ入ってきたのではないのです。もう、行くところがないので、『もしかしたら、助かるかも?』と思って入ってきたのです。


 「それで、どうしたらいいのですか?」(どうしたら問題が解決するのですか?)と聞きます。「できるだけ毎日参拝して、神前拝詞を唱えて、毎日の『朝の教話』(扇町教会では朝の御祈念の後の教会長の教話をMDに録音して、参拝者がいつでも教話を聞けるようにしています)を聞いて下さい。」

 ほとんどの人は一週間ほど参拝します。しかし、私の言うとおり、神前拝詞を唱え、MDの教話を聞いても、なかなか問題は好転しません。MDの教話は自分の問題と関係ない話です。そんなことを聞いていない。どうしたら問題が解決するかを教えてくれ、と心の中で叫んでいるのがよく分かります。それで、一週間ほどすると、参拝してきません。

 『自分でも解決できない、親しい人に相談してもダメ、専門家でもダメ』が腹入れできていないのです。『ここしか、教会しか、神様しかもうない』と腹入れが出来ていないのです。次にどこへ行くのでしょうね……。

 時々、この腹入れができている人があります。『ここしか、教会しか、神様しかもうない』と腹が据わっているので、参拝して神前拝詞を唱え、MDの教話を聞きます。それしか無いのです。すると、『もうダメ』という場面がすり抜けられます。しかし、次の難関が待っています。それも、なんとかすり抜けます。それを数度繰り返してくると、神様がお働き下されいることが実感してきます。

 そうなると、神前拝詞も本気で唱え、自分の問題に直接関わりないMDの話しも真剣に聞くようになります。


 一年もすれば、『自分でも解決できない、親しい人に相談してもダメ、専門家でもダメ』であった問題が解決の糸口が生まれてきます。

 「先生、不思議ですね……」としみじみとお礼を申されます。

何故、そのようになるのでしょう。勿論、神様のおかげと言ってしまえばそれまでですが、おかげを頂くには、頂く訳があります。

『教会はご神徳の温泉』
 立教百四十四年、教祖様以来歴代の金光様が、『全人類の救済』を祈り続けて下さり、その祈りが扇町教会へ直接に繋がり、金光様の祈りが流れ込み、今年開教九十四年の扇町教会では、
この九十四年もの間、一日も休むことなく、歴代の教会長が天地金乃神様に『人々の助かりを御祈念』している、『祈りの坩堝(るつぼ・熱い思いや願いが流れ込んだ壺)』であります。

 『祈りの坩堝(るつぼ・熱い思いや願いが流れ込んだ壺)』である教会は人々の人生の苦しみ、悲しみ、無常を癒す『ご神徳の温泉』のようなものです。

 ですから、教会へ参拝する、教会へ身を入れるだけで、ご神徳に癒され、生命のエネルギーを充電して頂けるのです。


『教話は心の栄養』
 教話は、直接自分の問題解決に関わりなくても、心の栄養となります。とかく、現代人は頭で聞きます。理論で理解しようとします。そうではなく、心で聞くのです。
教話の向こうに、神様の願いが聞こえてきます。問題に囚われている自分の姿が見えてきます。いくら神様に祈っても、ものごとの本質が見えてこなければ、問題は解決しません。心が栄養失調であれば、ものごとの本質が見えてきません。

 長年信心をしている人は多くの教話を聞いています。忘れてしまっていても、毛穴から入っています。ですから、さて問題というときには、うろたえ心が少しですみ、神様へ心を向けることが出来、本質を見つけることが出来るのです。

【平成15年12月号No.353「光道」より】