2000年12月

御本部布教功労者報徳祭参拝(2000.12.10)
■吉備舞奉納

御本部布教功労者報徳祭参拝(2000.12.10)
■お広前にて

正月準備御用奉仕(2000.12.30)
■正月花の生け込み
『吉備舞』とは、

『吉備楽』に『舞』の振り付けをしたのが『吉備舞』或いは『吉備舞曲』と呼んでいます。 『吉備楽』は、明治の初期に岡山潘の楽人岸本芳秀が、『雅楽』をより近代化し、当時の時代に合った親しみのあるものを願って創始したものです。

当初は『吉備遊び』、『明治曲』といわれ、『復古神道』(明治維新は武士の政治から、奈良、平安時代のように、天皇自らが政治を行うことを宣言した、天皇親政『王政復古』を宣言した。天皇は天照大神の子孫として日本の神々を『祭祀』する司であり、天皇親政とは、政治と神々を『祭祀』することを意味する。そこで、明治維新となって、『神道』が国の大きな柱となった。これを『復古神道』と言う)の興隆を背景にした、鑑賞音楽及び祭典として生まれました。『舞』も『大和舞』をベ−スとして、早くから取り込まれていたようです(明治十一年、東京の各所で吉備舞の演奏を行った時には、『舞』が付随していたということです。)

その後、時代伝承(古くからの物語)を取り入れた『舞台劇音楽』としての側面も取り込んでいく中で、明治十年から十三年にかけて、上覧演奏(天皇の前で演奏)等も行い、岡山県を中心に急速に普及してゆきました。しかし、現在では、『金光教』『黒住教』の両教団内にしか残っていないようです。

本教の祭典に、『吉備舞』が奉納されるようになる時期については定かではありませんが、明治三十四年頃には、大教会所(本教)の祭典に、『吉備楽』による奏楽と『奉納舞』が定着していたようです。

制度としての定着は、明治三十五年四月に『典楽部規則』が施行されてからであります。この中の部内に『楽長』『楽手』『舞人』が置かれることとされ、この当時以前から、『吉備舞』または『舞人』は、祭典に一定の役割を担っていたことが推測されます。これは、一つには、本教の祭典形式が『神道』の影響を多分に受けており、その形式における『奉納舞』、あるいは『巫女舞』がそのまま導入されたものでないかと考えられます。

『吉備舞』に奏する曲目は、現在『吉備楽』あるいは『吉備舞曲』といわれます。岸本芳秀が創始した一般論としての『吉備楽』の曲目全般を分類すると、『家庭楽』『余興楽』『祭典楽』に分けられそうです。これを仮に広義の『吉備楽』とすれば、教内における『吉備楽』は、狭義の『吉備楽』であり、広義の『吉備楽』の中の『余興楽』と『祭典楽』がその中身になろうかと思います。

『余興楽』は、いわゆる『歴史舞』を中心としたものです。『楠正成』『楠正行』親子や『児島高徳』等の題材をもとに作った『劇音楽』の要素を多分に持つものから、当時の岡山の歌人である『平賀義元』『上田及淵』等の歌詞を題材にしたものも多数あるようで、当然、その歌詞は、時代を反映して『神国日本』における意識高揚といった影響を色濃く受けています。

『奉納舞』は、教内者の歌に音楽をつけたものであり、教祖二十五年祭(明治四十年)に作られた『木綿山』(山本豊作詩)が最初であろうと思われます。 曲数ですが、私(金光教典楽会本部)のところでは、現在一五〇曲ほどが、『吉備舞』の曲として確認出来ています。ただ、これは金光教に伝わっているもののみであり、この中には、歌詞だけが存在し、曲、舞は忘れられいいるものもあると聞いています。また、教会ごとに新曲を作成したり、地方では、かなり柔軟に運用されているようです。 (金光教典楽会本部よりよせて下された文章です)