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【写真で見る扇町教会の歴史−3−】

此の方の道は
 唐傘一本で開くことができる

傘一本ということは
 真一心になりきることである

■初代教会長 押木領七師
◎ 押木領七師

 領七師は、安政四年、新潟県中魚沼郡で押木多兵衛の四男として生まれた。

 明治維新の変革期にあって、師は軍隊に入り憲兵となって、明治十七年春、大阪は難波憲兵屯所に勤務することとなった。このことが、この道と出会うもととなる。

 当時の本教はまだ公認の宗教として、認めておらず、近藤藤守師、二代白神師、福嶋儀兵衛師など、先覚の諸師達が熱烈な布教をしていた。師は職責柄、治安のため未公認の教会へ出向くうちに、この道の信心の素晴らしさ、有り難さを感じるのである。屯所へ弁当を入れている、熱心な信者である平井米吉氏の勧めにより、福嶋儀兵衛師の長女マス師と明治十七年秋結婚、近藤藤守師が仲人となり、師はます/\に信心を深めていく。
 明治二十年には教師となり、軍務のかたわら御用をし、明治二十九年除隊後、真砂教会で御用をし、奈良県の桜井、高田両教会長も兼ねて御用をした。

 明治四十年大阪市北区角田町(万歳町)にマス師共に布教、長男弘一師も、明治四十一年、吉 教師を拝命し、三人で布教に従事する。

 明治四十二年十二月二十八日、大阪府より認可を受け、扇町教会の前身である、豊崎教会が開教された。師は以後、御用に専念し、昭和十二年十月二十日、八十歳で帰幽した。

■初代教会長夫人 押木マス師
◎ 押木マス師

 マス師は大阪で慶応二年十二月九日、福嶋儀兵衛師の長女として生まれてた。 儀兵衛師の信心に幼少よりふれ、度々教祖の元へも連られて参拝した。

 明治十五年、儀兵衛師と共に参拝した時、
「氏子、人に物を頼むな。此方の道は唐傘一本で開くことができる。氏子、信心しておかげを受けよ」

「ただいま、神様はあのように仰せになったが、人の心は移り変わりやすいものである。その、人を頼りにするから、腹を立てたり物事を苦にしたりすることになる。人に向かう心を神様に向けよ。神様は、氏子の願いは何でも聞き届けてくださる。此方が傘一本と言うことは、 真一心になりきることである」
との御理解を頂いた。
 この御理解はマス師の 一生の信心と御用の要であった。

 領七師と結婚してからは、領七師の信心と御用を励まし、祈り、信者を導いた。

 昭和二十年、扇町教会が戦災に会い、復興の めどのつかぬ折り、ひたすらに復興を祈り続け、現在の扇町教会の土地を得ることを知った、復興の前年、昭和二十三年四月七日、八十二歳をもって帰幽した。

 儀兵衛師はマス師が領七師に嫁ぐ時、教祖より頂いた御神鏡をもたせた。この御神鏡が豊崎教会の御神体となり、更に、昭和十四年、小林俊吉師が加島教会を開いた時、その御神体となった。昭和五十年、加島教会が閉鎖され、再び扇町教会の御神体となった。


■左より 領七、弘一、政治 ■左より 弘一、領七、政治、マス
■初代領七師の若い頃 ■平井米吉
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