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【写真で見る扇町教会の歴史−6−】

二代教会長に受け継がれ

■二代教会長 押木弘一師
 領七師は昭和十二年十月二十日、八十二歳をもって帰幽した。

 領七師の長男として、明治二十年八月二十三日に誕生した弘一師は、領七師を二代教会長として御用にあたることとなった。弘一師は豊崎教会が開教した治四十二年の前年、お道の教師を拝命し、領七師と共に、教会を開いた。

 弘一師はいよいよ布教に専念していったが、大きな試練が待ち受けていた。昭和五年三月二十六日、イツ夫人(四十六歳)を失い、更に、昭和十六年十月十一、扇町教会を陰ながら支えてきた、弟政治氏(五十二歳)を失うのである。

 失意のどん底の中に、世の中は大きく変わり国を挙げての総力戦である、太平戦争へと突入していくのである。


二代の修行

■二代教会長夫人
 押木イツ夫人
 教会の働きも戦時色の強い活動が主となり、男子の信者の多くは戦地へ行き、弘一師の長男弥寿雄氏、次男教雄氏も戦地へ行った。また、近所にいた信者も、方へ疎開して行った。

 そのような中で弘一師は、和歌浦教会長内垣伝一郎師の長女、冨美恵氏を後妻に迎えた。戦争の雲行きが怪しくなってきた頃の、昭和十九年七月十六日、現教長広太師が誕生する。このような社会状況、教会の様子の中で現教会長は誕生したのである。

 戦火は本土にまでおよぶようになった。失意の弘一師に更に追い討ちの修行が待ち受けていた。

 その一つは、B29の来襲に備えての建物強制疎開であった。扇町教会は北野病院を空襲から守るために昭和二十年四月九日、潰されたのである。建築後わずか七年であった。

 その二つは、建物強制疎開により教会が無くなったので、近所(堂山町)の風呂屋を借りて、仮の教会を開き、御神具や全財産をそこへ移していた。その風呂屋に、昭和二十年六月の大空襲でB29の落とした、焼夷弾が直撃し、御神具から全財産まで焼かれてしまうのである。

 しかし、その焼け跡から、三代金光様が、扇町教会の新築の際に下された、錫物御神鏡が無傷で出てきた。このことが、弘一師の教会復興の元となる。

 その三つは、この空襲の少し前、教会の後継りと願っていた次男の教雄氏が戦死したのである。

 その四つは、教会も家も財産も、全てを失った弘一師は、その日から寝る所もなく、食べる物さえないこととなり、乳飲み子の広太師を抱え流浪の生活を余儀なくされ、信者の家を転々とし、昭和二十一年の正月まで、約半年間に七度住む所を変えている。 
■扇町教会 国防婦人会 ■押木弥寿雄 任官状
■昭和20年6月の大阪大空襲 (写真資料:「大阪布教百年」より)
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