【写真で見る扇町教会の歴史−8−】 | |||||||||||||||||||||||||
弘一師 多方面に御用
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■修徳殿輔導 | |||||||||||||||||||||||||
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復興の時、弘一師ははや六十三歳であり、冨美恵夫人は身体が弱く、さらには、復興の少し前、徳子師が誕生している。 食べることさえ事欠く中で、弱い夫人と、幼子二人を抱えつつも、その布教精神は青年のようであった。 すぐさま、大阪府連盟布教部講師として、戦火に遭った府下の教会の、先生や信者の方々を励ましに、説教をして回った。 冨美恵夫人は弱い身体ながら、弘一師の留守を守り、人々を救い助けた。 |
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一歩一歩のあゆみ |
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バラック建の教会は、二、三年毎に、畳が入り、瓦が敷かれ、天井ができ、電気、ガスと次々と調っていった。 昭和三十二年、広前を増築、二階に六畳二間が建築された。ここに、昭和三十四年、開教五十年、復興十年の記念祭が仕えられた。この十年の弘一師、冨美恵夫人の祈りと働きは、寝食を忘れ、敗戦に伴う社会の変化、そこに付きまとう人々の苦難を、共に味わいつつ、助けていくのである。 廣太師も中学生ながら、少年少女会や青年会をつくり、布教活動の中身となった。 また、教会の機関紙「光道」が発刊されたのも昭和三十二年であった。 |
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