■■■ 扇町教会メールマガジン ■■■
No01〜09のメールマガジン

No10〜19のメールマガジン

No20〜29のメールマガジン

No30〜39のメールマガジン

No40〜49のメールマガジン

No50〜59のメールマガジン

No60〜69のメールマガジン

No:49
●心の助かり 

「なんで、そんなことに囚われますの……」

「そんなに心配ばかりしても、どうなるものでもありませんよ……」

「なぜ、そんなことに腹がたちますの……」

「そんなにヤケを起こしたら、人生が無茶苦茶になりますよ……」

「いつまでも、クヨクヨしてもはじまりませんよ……」

「もっと、明るい方へ考えなさいよ……」

「もう、そんな人、相手にしなさんな……」

「いくら親子でも、どうしようもないのですよ……」

「いまさら、未練ですよ……」


 親しい人から相談を受けた時、よくアドバイスする言葉ですね。その人の難儀を客観的にみれば、このような言葉になります。そのとおりで、間違ってはいないのですが……。この言葉で、相談している人が納得し、助かったらいいのですが……。

 その人の心がこのような状況にになっているから、抜け出せないから苦しいのですね。抜け出すことが出来れば苦労がありません。抜け出せないで苦しいので相談しているのです。(いや、相談ではなく、聞いてもらって、心を慰めているのです)。

 教会へ参拝される方も、問題解決ではなく、この心を癒してもらいたいために来ている人が多いですね。参拝して、神様を拝んでいても、お話しを聞いていても、『心の殻』から出てこようとはしませんね。


 A子さんは結婚をして子供を頂いたのですが、その子は生まれながらの小児喘息で、ひよわでゼーゼーと咳がとまりません。子供を連れて、あちらこちらの病院や、治療に回りましたが、いっこうに良くなりません。しまいには、子供の将来を悲観して、子供を連れて電車に飛び込もうさえ思ったそうです。

 姑さんが金光教の信心しており、教会へ参拝するように勧めますが、姑さんが行っている教会は行きたくないとの思いがありました。しかし、モンモンとした日々が続き、八方手を尽くしても良くならず、仕方無しに教会へ来ました。どうせ、治らないとの思いが強く、その思いの辛さを教会へきて吐露し、子供の病気が治らないことを嘆き、子供の将来を悲観する心を語ることで、少しは癒されるような参拝でした。

 そんなある日の参拝でした。いつものように心の辛さを語っていました。ちょうどその時参拝していたおばあさんの信者さんが、

 『あんたナー、自分の子供やと思うているやろ、みな、神様の子供やねんで、神様の子供やから、神様に治してもらったらええんや。神様に通じたら神様が治して下さる』

 このようにA子さんに語ったのです。正に神様の声でした。A子さんはハッとして、そのおばあさんを見つめました。おばあさんの真剣な、慈愛に満ちた顔がありました。この時、A子さんの心に神様が入ったのです。『私が心配しても、どうにもならない。神様にお働き頂こう』との思いが湧いてきました。それからの参拝は、神様に心が向くよう、神様にお喜び頂くよう、真剣な信心になりました。

 それから数ヶ月後、その子供さんが一人で旅をすることになり(それも、神様にお任せをすることが出来ました)、その宿で喘息の発作出た時、宿の主人がこの病気に取り組まれた方で、良くなる治療を教えてくれたのでした。たまたま泊まった宿の主人の治療方法により、生まれながらの喘息は全快のおかげを頂きました。


 『心の殻』に閉じこもる原因はいろいろあります。しかし、その原因の解決よりも『心の殻』に閉じこる方が難儀なのですね。原因は時が解決したり、解決しなくても、それなりに生きられるものなのですが、『心の殻』に閉じこもる難儀はなかなか助かりません。いくらアドバイスをしてもどうにもなりません。聞いてあげて、癒してあげるだけでしょう。しかし、それは一時のことで、ちょうど、苦しいのでお酒で紛らわしているのと同じです。覚めたらまた、苦しいのです。

 唯一、この、『心の殻』から出ることが出来るのは、その人の心に神様が入ることです。しかし、A子さんシブシブでも教会へ参拝していたので、おばあさんを通して、神様の声を聞くことが出来、『心の殻』を破り、心に神様が入って頂くことが出来て、助かりましたね。

 『心の殻』に入って苦しんでいる人に神様を渡してあげましょう。


【平成17年9月号 No.374「光道」より】

No:48
●夏はスイカ…… 

 夏場の月例祭の神饌物に大きなスイカがよくお供えされている。盛りつけはイトモ簡単。カワラケ(三宝の上に置く皿)にボンと置くだけである。神饌物盛りつけでは、一番簡単な神饌物であろう。

 月例祭が終わり、お下がりされたスイカは、冷蔵庫の中で大きな位置を占める。早く頂かなければ、他の食物が入らない。そこで、明くる日は、スイカを頂くことになる。

 先日も、よく冷えたスイカを頂いた。真っ赤なみずみずしいスイカである。あの真っ赤に熟した実の中に、あれほどの甘い水分が貯蔵されているのに感激させられた。

 今日の社会では、水は水道から出るものと決まっている。水が要るときは何の疑念も持たず水道の蛇口をひねる。すると、ザッーと水が蛇口から出てくる。当たり前とも思わない……。しかし、地方によっては、水不足で蛇口をひねっても水が出ないことがある。水枯れである。

 この水道の水は、川の水を浄化して、水道水として、パイプで配水されているのであるが、大阪(北区等)の街では、一般庶民の家庭にまで、水道の無い頃(大正の半ば頃まで)、『水売り』が牛車に水桶を積んで、街々を売り歩いていた。堂島川にはその水を淀川から汲んできた船が何隻も横付けされていた。牛車はその船から水を補給して、街々を回った。庶民はその水を買って、飲料水としていた。(梅田より西の方面は、井戸水が飲料水に出来なかった)。そのために、水は大変に貴重なものであった。 

 郊外では、川や井戸から生活水や田畑の水を得ている。水を得るには、大変な動力が必要であった。特に夏は、カンカン照りのために、田畑の土地は焼けて、ヒビ割れを起こすことがよくある。

 この、カンカン照りの焼けてヒビ割れした畑から、みずみずしいスイカが出来る。人々が水不足で困っている時に、このスカイ出来る。なんと、天地のお働きは有り難いことなのか。水の無い時に水瓶をお与えになっている。スイカのルーツはアフリカの砂漠地方と聞いている。砂漠の民に天地の神様はスイカをお与えになっている。

 このようなことは、スイカに限ったことではない。季節季節に天地の神様は、その時一番良いものをお与えになっている。恐れ入ったことである。

 このような思いで、スイカを頂くと、スイカに天地のお働きを頂くことが出来る。


【平成17年8月号 No.373「光道」より】

No:47
●四代教主金光鑑太郎先生のお詩
    『一つぐらゐ 何か取柄のあるならん 
          このわれにもと 思ひつぶやく』 

 四代教主金光鑑太郎先生はそのご生涯で何万ものお詩を残しておられます。その多くは『土』という歌集に載せられています。

 日常の身近な生活の中での出来事で、思われたことを詩にしておられますが、その日常の生活の中に、天地の道理、命の尊さ、真実を見つめる目を大切にしておられます。 有名なお詩に

 『父母も子供とともに生まれたり 育たねばならぬ 子も父母も』があります。子供さんが誕生した喜びと同時に、新たな親子の関係が生まれたことを大切にされ、子供だけが育つのではなく、親もまた、この子供との親子関係の中で、信心しておかげを受けてゆかねばならないと、詩にされています。

 そのようなお詩の中から、短冊にお詩をしたため、毎月の誕生日を迎える信奉者の方に、申し出によりプレゼントさせて頂いています。

 五月の誕生者にプレゼントさせて頂いたお詩が

『一つぐらゐ 何か取柄のあるならん このわれにもと 思ひつぶやく』

 このお詩を詠ませて頂いた時、鑑太郎先生はどのような状況での心境であられたのか。前後の状況は分かりません。きっと、自らを自責しておられたのでしょうね。

 神様の思し召しに叶っているか、人の心を傷つけていないか、ズボラ心が出ていないか、自己中心になっていないか等々、信仰の世界で大切なことは、自らを見つめる目が大切です。

 しかし、このことを突き詰めると、自己否定となり、暗い暗いトンネルの中に入ってしまいやすいものです。すると、自分もまた、神様から頂いた命であり、神の氏子であることを否定してしまうことになってしまいます。

 その時に読まれたお詩ではないでしょうか。『自分にも一つぐらい取柄がある』と、自らに言い聞かせ、生きる価値、ご自身の価値を認めようとされています。自分も大切な神の氏子としての自覚をしておられます。


【平成17年6月号 No.371「光道」より】

No:46
●♪♪ さいたー さいたー チューリップのはなが…… ♪♪

 扇町教会には三人の孫(私には、四条畷教会にも五人の孫がいます)がおります。今年小学校へ入学した眞美、今年は保育園の年長組に進級した大地、一才八カ月の愛です。おかげを頂き、元気に成長させて頂いています。毎日、にぎやかに生活させ頂いています。

保育園では毎年、冬休み前にチューリップの球根を下さいます。もらってきた球根は、本人達と下の愛、母親の浩美、祖母の正子とが、長方形の植木鉢に植えます。昨年の冬も植えました。それを玄関の側壁に置きます。この植木鉢が扇町教会の唯一の『緑』です。

 (扇町教会はご承知のように、大阪の梅田の繁華街の中にあります。全てコンクリートの街です。『一寸の土地』もありません。また、太陽のお照しも届きません。ですから、朝の五時過ぎから夜の十一時頃まて、お広前をはじめ、各部屋は電気がついています。かろうじて、玄関の前の道に西日がわずかな時間お照しが当たります。)

 一昨日(四月八日)、ピカピカの一年生の眞美が登校の際、教会の玄関を出た時、「ワ!チューリップの芽がでた!」と大声で叫びました。すると、まだ登園の準備中の大地が飛び出してきて、「ワ!ほんとうや!」と叫びました。

 昨年の春もチューリップの芽が出ていらい、姉妹はは保育園へ登園する前、小さな植木鉢の前(人通りの多い道路)で、 『♪♪ さいたーさいたー チューリップのはなが』と大声で歌います、毎日毎日……。今年は、まだ言葉がしゃべれない愛も、いっしょに歌うことでしょう……。出勤の人々が足早やに通りますが、皆、植木鉢のチューリップを見て、微笑んで通り過ぎます。孫達とチューリップが、コンクリートの街に一風の安らぎを与えます……。

 それにしても、植木鉢のわずかな『お土』が、チューリップの生命を育み、開花させ、人々の心に安らぎを与えています。『お土』が育んだチューリップの生命と、私達が天地の間に生かされている生命は同じなのですね……。ですから、心が癒されるのでしょうね……。北原白秋が『バラの木にバラの花咲く、何の不思議はなかれども……』と言っています。最後の『何の不思議はなかれども……』の『……』に、白秋は何を言いたかったのでしょうね。


【平成17年5月号 No.370「光道」より】

No:45
●生きた神を信心せよ

 「天地金乃神様って、どんな神様?」と、信者さんであれば、周囲の人に聞かれた経験は、幾度かあることでしょう。そのような時、ほとんどの信者さんは「天地の神様」もしくは「いのちの親神様」と答えておられるのではないでしょうか。

 私は「信心しているしていないに関わりなく、妊婦がいよいよ出産の時、本人も、ローカにいる家族も、陣痛の叫びを聞いて、思わず『神様!』と念じたり、叫んだりする神様。そして、オギャー!と元気な産声を聞いた時、『神様、有り難とうございます!』お礼を言っている神様です」と答えています。

 子供の頃は、何かことがあると母親の膝に駆け上って、その胸に『おかあちゃん!』とすがりつきます。成人するにつれて、そのようなことはしなくなります。理屈も言います。何もかも自分で処理します。

 ところが、人生のどん底に落ちたとき、『おかあちゃん!』とつぶやきます。たとえ、母親が亡くなっていても、母親を呼びます。戦後六十年になります。多くの人々が戦争で亡くなりました。戦地から無事生還した兵隊さんに聞いたことがあります。日本の兵隊は天皇陛下のために命を捧げると教育されていました。突撃で敵の弾に当たった時、「天皇陛下万歳!」と言うそうですが、それを言える人は軽い負傷で、戦死をする人は「おかあちゃん」と言って亡くなるそうです。それは、お母さんと命がつながっているからでしょう。お母さんに無条件の愛情を注がれたからでしょう。

 天地金乃神様は観念の神様ではありません。理屈で生まれてきた神様ではありません。お産の時に、思わず知らず『神様!』と叫ぶ神様です。

 『金乃神様』は大地を巡ってお守り下されている神様です。この神様のお働き、お徳により大地が生きて働き、生命を宿し、育んでいます。大地が生きているから、私達も生きているのです。

 『天と地の間に人間がいる。天は父、地は母である。人間、また草木など、みな天の恵 みを受けて、地上に生きているのである。』

 『天地は生き通しである。天地が生きているから、人間もみな生きていられるのである。』

 天地、大地は自然の働きではありません。宇宙にはあまたの星があります。その星の中で、『金乃神様』がこの地球(人間が名付けた)という星に、命の働きをされ、私達が生きています。『金乃神様』のお守りお働きあって、日々の生活をしているのです。無意識のうちに『神様!』と叫ぶのは、神様から頂いた命が、神様につながっているからなのです。

 更に寿命がくると神様に魂を引き取って頂かねばなりません。そうでなければ、死後の安心もおぼつかないことになります。

  

 『人間は、おかげの中に生まれ、おかげの中で生活をし、おかげの中に死んでいくのである。』

 『生きている時だけ天地金乃神のお世話になるように思っている者もあるが、死んでもお世話にならなければならない。魂は神からお下げくださったものであるから、天からお暇が出たら、また神のおひざもとに納まり、体は地から生じたものであるから、地に納まってお世話にならなければならない。』

 この天地金乃神様にご信心するのは、『親に孝行するのも同じこと』であり、昼も夜もお守り下さるだけではなく、『氏子、何なりと実意をもつて願え』と、願う氏子に『良い巡り合わせ』を下さいます。


【一般配布 平成17年4月号 No.368「光道」より】

No:44
●『浮き草』の人生から『実りのある人生』

 扇町教会では『三千世界』の人々を助けたいとの、天地金乃神様の「御神願御成就」を願い、インターネットホームページを開設し、教祖様の教え、教会長の教話集、おかげ体験等を載せています。多くの人達が(昨年月平均一九〇〇回)、扇町教会のホームページを見られて、中に助かけられ、信心する人も段々と出てきました。ホームページに『ネット祈願』のページがあり、誰でもが、神様へお届けすることが出来るようになっています。そのページには様々な人の悩みや難儀が寄せられます。昨日、次のような問題のお届けがありました。プライバシーに関わる問題でもなく、また、扇町教会では、その人と面識もありませんので、不特定の人からの願いとして掲載させて頂きます。


[祈願内容] 諸願成就祈願 

 今、五十歳です。二月で、五十一歳になります。この五〜六年間は苦難の年でした。これからの私の人生が意味のある心豊かで、充実した人生がおくれますようにお願いいたします。今、私の抱えてる諸問題が良い方向に向かいますようお願いいたします。それと、健康でなにごともないおだやかな日々がおくれるようにお祈りいたします。

『導きのことば』

 貴方の願われていることは、『人生の体質改善』です。すなわち、人生の歩みが『良い巡り合わせ』になるようにとのことです。

 この願いは一番根本の願いであると同時に、一番大きな願いでもあります。このことが成就するには、貴方の生き方、考え方、の改善が必要です。また、神様から『神徳人徳』を頂かねば出来ません。
 真剣に神様へ向かい、『うれしく』『楽しく』『有り難く』人生を送れるようになって下さい。
 本気でそのようになりたいと思われるなら、これから先も、お導きさせて頂きましょう。


(質問と感想)

 どうも、ありがとうございます。

 うれしく・楽しく・有難く・とありますけど、有難くはおもっています。でも、このような私の状態では、うれしく・楽しくは、難しいです。努力はしているつもりなのですけど。

 『神徳人徳』これは、どうすればいいのでしょうか?

 私は、人には親切ですし、人には甘いです。どちらかと言うと、お人よし、で、悪い事は出来ない人間だと思っています。ご先祖様も大切にしているつもりです。これは、自分のエゴの妄想でしょうか?

 私は、悪い所はたくさんあります。人間ですから、生きていますから、まぁ、グチの多い人間かもしれません。

 本当になにごとにも感謝していないのかも知れません。でも、私は、私なりにがんばってきたつもりです。いけないこともしましたが、わたしは、なんでも、かんでも許せる人間ではないのです。

 それも、自分のエゴ・自己満足・身の程知らずかもしれません。これからの、私の人生は、穏やかに歳をとって、歳を、とっても、いい歳のとり方をしたいと願っています。

 醜い争いのない、穏やかな生活・もう、若くないですから、すいません、生意気な事をいいました。
お許しください。また、内容、とりとめなくすいません。

『導きのことば』

 はい、まじめに、人間を中心に今日まで人生を歩んでこられた貴方でしょう。それなのに……。

 貴方が祈願された神様は、お社に鎮まっておられるような神様ではありません。とてつもない大きな、偉大な力を持たれた神様です。信者であろがなかろうが、皆、この神様から生命と魂を頂いて生まれてきて、寿命までこの神様の恵みに生かされ、寿命がつきれば、この神様に魂を引き取ってもらう神様です。

 この神様を知らない(無視する)で、人間が中心に生き、人間を中心に努力をしても、人の中(社会)ではいい人であっても、浮き草の人生になるのです。この神様の存在を知り、信心すると、亡くなった先祖の霊から自分自身、子や孫の子孫まで助かる『神徳人徳』を積むことができます。

 どうすれば信心になるのか?

 『信心する』ということは、神様を認め、神様と関係を持つことです。いくら拝んでも、この基本がなければ、一方通行です。

 まず、真剣にお願いするところからですね。真剣、貴方のお名前や住まい、生年月日など、きっちりと届けるところからです。

 扇町教会のホームページを開いて『ネット祈願』を申し込まれましたね。ホームページには教祖の教え、扇町教会長の教話集などが載せられています。いい加減な宗教ではありません。

 じっくりと読まれて、神様と関係を持つ『信心』をされるかどうか、まだ、三〇年四〇年とある人生を『うれしく』『楽しく』『有り難く』送れるかどうかです。

【一般配布 平成17年2月号 No.367「光道」より】

No:43
●『お役にたってこそ輝く命』
 お役に立てば神様から『良い巡り合わせ』

 新年、あけましておめでとうございます。

 今年も、神様から『良い巡り合わせ』を頂かれ、『うれしく』『楽しく』『有り難く』一年間を健康で過ごされますよう、御祈念させて頂きます。


 神社の前を通る時、時間のある時は参拝させて頂くことにしています。その社の祭神や由来の書かれた掲示を読むのも楽しみの一つです。最近、参拝した神社で共通した掲示板があるのに気がつきました。それは、男女の『厄年』を記載したものです。前から厄年は男子は四十二才、女子は三十三才のみと思っていましたが、『男子二十五才・四十二才・六十一才 女子十九才・三十三才・三十七才』で、その前後の年を前厄、後厄として、三年づつ厄年があるそうです。その厄年の由来は書いていません。どうして厄年なのかは分かりませんが、長年の歴史のなかで言い伝えられてきたのでしょう。この年齢の近くなると、難儀や問題、体調不良、病気が起こるとされています。

 そのようなところから、厄年の人は『厄払い』として、神社に参拝して『お祓い』を受けるようにとのことです。

 このお正月に、神社に初詣をかねて参拝し『厄払い』の『お祓い』を受ける人も多くおられることでしょう。厄年を迎えると、何となく不気味さを感じる人が多いようです昔は、『厄落とし』として、親類縁者を呼んでご馳走をして振る舞ったそうです。この厄を乗り切りたいといろいろ考え、易の本なども読むのも、この厄年が近づいた人達でしょう。 


 福嶋儀兵衛先生(真砂教会初代)が教祖様から頂かれた御理解

 明治五年は厄年なので、正月に厄晴れの祈念をこめて御本社(教祖様のお広前)へ参った。その時、

 「此方の道では、やくとは世間でいう厄ではなく、役人の役という字を書く。やく年とは役に立つ年ということであるから、大やくの年とは、一段と大きな役に立つ、大役を勤める年と心得て、喜び勇んで元気な心で信心をせよ。草木でも節から芽が出て、枝葉を茂らせているであろう。しかし、節は固くて折れやすい。人間も同じこと。信心辛抱していけば、節年を境に年まさり代まさりの繁盛のおかげを受けることができる」

 厄年が気にかりり、厄晴れや厄落とし、易の本を読む。もう、この時から、『厄』にかかっているのですね。人間は何を信じるか、何を大切にするかによって、その姿が現れてきます。厄年を信じる人には厄が現れます。大殺界を信じるひとには大殺界が現れます。広大無辺な天地自由自在の天地金乃神様を信じると、そのような働きを頂くことが出来ます。

 教祖様が福嶋師に教えられた『役に立つ年』とは、厄年に囚われ、命が生き生きしない生き方を改め、神様のお役に立つよう、喜び勇んで元気な心で信心をするように御理解下されています。世間で言われている厄年を『役に立つ年』と頂いてゆくと、枝葉が茂る年になるおかげを頂くことが出来ます。

 今年も、元気な心で、『うれしく』『楽しく』『有り難く』神様にお使い頂き、お役に立たせて頂きましょう。『良い巡り合わせ』のおかげを頂くことができます。

【一般配布 平成17年1月号 No.366「光道」より】

No:42
●信仰の力

 今年の秋も、各地の教会の生神金光大神大祭に参列やお説教の御用をさせて頂きました。それぞれの教会では教会長先生、ご家族、信奉者の皆さんが一生懸命にお仕えになっておられます。

 そのような中、A教会へお説教に行かせて頂ことになりました。A教会へは五年ほど前にご大祭のお説教の御用をさせて頂いています。この教会の教会長先生は私と同じ年(六〇才)であります。奥様は二〜三才年下とお見受けしています。子供さんは男子二人、女子一人を頂かれました。

 この教会は昭和四十八年(三十一年前)に教会長先生とお母様によって開設された教会です。ゼロからの教会御用です。ですから、建物も普通の小さな民家をお広前にされ、二階を住居とされています。本当に初代のご苦労、道開きのご苦労そのものです。


 ご大祭の数日前に教会長先生からおハガキを頂きました。

 前略 日夜ご神勤有り難とうございます。

 教会長先生を始め、ご家族皆様には、その後お変わりなく、お元気にお過ごしの事と存知ます。

 さて、今度は当広前ご大祭にはご用ご繁多の折り、教話のご用おつとめ下されることになり、有り難く存じます。なお、お察しの通り、手狭ですので、背広のままで、その上に教衣で結構かと存じます。背広でも結構かと思います。先年より祭典後の直会はとりやめておりますので、宜しくお願い致します。

 なお、先年より家内がアルツハイマーの病気を患らい、お見苦しいところをお見せするかも知れませんが、お許し頂きますようお願いします。亡母の世話を辛抱強くつとめてくれ、三人の子供たちを育て、送り出してくれ、至らぬ私を支えてくれ、今は感謝の思いで一杯で、日々を大切に家庭介護をさせて頂いております。では当日宜しくお願いたします。 早々

 この書面を拝見させて頂いた時、五年ほど前のご大祭にお説教の御用をさせて頂いた折り、奥様の優しそうなお顔を思い出しました。あの奥様がアルツハイマー……。どの程度の病状なのかは分かりません……。あの狭い建物で自宅介護とは……。また『亡母の世話を辛抱強くつとめてくれ、三人の子供たちを育て、送り出してくれ、至らぬ私を支えてくれ、今は感謝の思いで一杯で、日々を大切に家庭介護をさせて頂いております。』とは、何ということか……。


 様々な思いと想像をもってA教会へ行かせて頂きました。すると、教会は立派にリホームされ、以前の古い民家の面影はどこにもありません。教会長先生、若先生ご夫婦、次男ご夫婦、長女ご夫婦や信奉者の方々が明るく生き生きと向かえて下さいました。お広前もきれいに明るく改造されていました。

 神納所には若先生がお座りになり、その後ろに車椅子に乗り、婦人用広前服を着て、下を向いている(下を向いているのではなく、ご自身の頭や体をご自身の力で支えることが出来ない状態)ご婦人がおられました。奥様です。ご様子では、ほとんど意識はなさそうです。側には、若奥様、次男の奥様、長女の方達が付き添い、何かとお世話をされています。

そのような病状でありながら、奥様を教会長夫人として、御用が出来られるよう、ご家族で支え合い大切にしておられるお姿に、胸が熱くなりました。


 お話しでは奥様の病状は好転することは難しいとのことです。しかし、単なる自宅介護だけではなく、奥様のこれからの一生を神の氏子として大切に、元気な時のように、御用が出来られるように(実際は出来る状態ではありませんが、部屋の奥へ入れておくのではなく)家族がお世話をしておられます。

 このような奥様の大変な状況の中、教会の建物はリホーム、改築の大御蔭を頂かれるばかりか、それぞれの子供さん達はお道の御用をされ、結婚の大御蔭を頂き、教会長であるお父さんを助け、お母さんのお世話をするばかりか、ご両親の大切にしておられる『信心と御用』を頂いておられます。

 信仰の力とはこのようなものかと、改めてかみしめさせて頂きました。


 ちなみに、ちゃんとお装束を持ってゆかせて頂き、着替えて説教の御用をさせて頂きました。(簡略な衣装での御用は相済まないと思い)

【一般配布 平成16年12月号 No.365「光道」より】

No:41
●神のはからい おそれいったこと

 今年の天地金乃神様月例祭の祭詞の『神徳句(神様の徳を称える詞)』を、伍賀慶春先生が残して下されたご理解を使わせて頂いた。

  『願う心は神に届くものである。天地金乃神は、くもが糸を世界中に張ったのと同じことである。糸にとんぼがかかればびりびりと動いて、くもが出て来る。神も同じことで、空気の中にずっと神の道がついているから、どれほど離れていても、拝めばそれが神に届く。

 人間がおかげを受けないで苦しんでいるようでは、神の役目が立たない。』と諭せ給ひけるが如く、畏き天地金乃神はし、世界六十三億もの人々を刻刻に生かし恵ませ給ひ、人皆の親神として、人の立ち行きのためには『きれいずく』でない働きをなし給ひてあるは、畏しとも畏し。

 さらに扇町教会では各月例祭に祈願カードをもって、お礼お願いをお届けさせて頂き、その祈願カードを教会長が毎月日々御祈念をさせて頂いている。

 ちなみに、

・天地金乃神月例祭=健康諸願成就・病気回復・交通安全祈願

・生神金光大神月例祭=商売繁盛・仕事成就祈願

・霊神月例祭=勉強成就・入試合格・就職成就祈願

・いのちの御礼祈願祭=家庭円満・この月誕生月お礼・良縁・懐妊安産・育児成就祈願

 この祈願にはそれぞれの御祈念詞があり、それを唱えさせて頂く

 生神金光大神様  天地金乃神様  生神金光大神様  天地金乃神様

 謹んでお礼、お願い申し上げます。神様の大御恵みの中に生かされ、日々お守り頂き、無事に過ごさせて頂いておりますこと、厚くお礼申し上げます。

  今日の社会は大変な車社会であります。日々多くの人々が交通事故で命を落としたり、怪我をしています。そのような中に、今月今日、お守りを頂き、運転する私や家族の者も、そうでない私や家族の者も、交通事故の災いを受けず、無事でありますこと、真に有り難いことでございます。厚く厚くお礼申し上げます。

  運転する私や家族の者におきましては、今月今日の運転に、人身事故、物損事故等起こさぬよう、譲り合う心で、安全運転に務めさせて下さい。更には、他の車による接触、追突されぬよう、お守り下さるよう、お願い申し上げます。

  運転をしない私や家族の者におきましても、歩行や自転車の運転に注意を怠ることなく、交通事故の災いを受けることのなきよう、お守り下さるよう、お願い申し上げます。また、交通事故で怪我をしている知人におきましては、速やかに全快なし、社会復帰が出来ますよう、お願い申し上げます。

 生神金光大神様  天地金乃神様 生神金光大神様 天地金乃神

教会長である私も個人としてこの祈願カードを書き記し、それぞれの月例祭にお届けさせて頂く。

『交通安全』の祈願カードには、扇町教会家族、四條畷教会家族一人ひとりの名前を書いて、「車運転」「自転車」「歩行」の安全を祈念している。


 このようにして、日々御祈念をさせて頂ている。

 おかげを頂き、誰も交通事故の災いを受けずに日々を過ごさせて頂いている。有り難いことであるとお礼を申しつつも、毎日の御祈念の中の流れのような御祈念である。  

十月十日(日)、扇町教会ではご本部の生神金光大神様のご大祭に日帰りで参拝させて頂いた。十一日も体育の日で休日ということで、四条畷教会の孫三人を扇町教会に泊めた。

 明くる十一日、家内が四条畷教会の三人の孫と扇町教会孫二人を連れて、JR環状線の森の宮駅の側にある大阪城公園の遊園地へ連れてゆくこととなった。なにぶん、年上が中一、一番年下が四才である。連れてゆく家内はやはり気を付けている。JR環状線の森の宮駅へは、JR環状線の天満駅から乗車する。

 五人の孫と家内は天満駅で前から二両目の乗車するべく、ホームで電車を待った。この外回りのホームは直線ではなく、カーブをしている。やがて電車はホームに入り、乗降客がすみ、家内は一番年下の四才のD雄から乗車させようとした。

 D雄が片足を電車に掛けようとした時、中年の女性が遅れて飛び出してきた。おそらくいね眠っていたのか、ボウッートしていたのか、下車することに気づき、飛び出してきたのであろう。あわてて下車しようとしたその女性は、四才のD雄にぶつかり、そのままホームをかけっていった。

 ぶつかられたD雄は、その反動で反転しつつ、電車とホームの間に落ちた。ホームがカーブしているので、電車とホームの隙間が広いところであった。

 その情景を目前で見た家内や四人の孫達は愕然と立ちすくし、何が起こったのか、一瞬真空状態になった。気がついた家内は「電車を止めて!」と大声で叫んだ。その時、乗車してドアの側にいた二人の男性青年が、一人はドアが閉まらないよう両手を広げてドア押さえてくれた。もう一人の青年はホームをダッシュして運転室のドアをたたき「子供が線路へ落ちた」と急をしらせた。電車が動かないのを確認した中一の孫のS郎は「D雄、手を挙げ」と指示して、D雄をホームへ引き上げた。

 D雄は、どこも傷なく無事であった。


 わずか数秒の出来事である。この数秒の間に、天地を動かしておられる神『天地金乃神は、くもが糸を世界中に張ったのと同じことである。糸にとんぼがかかればびりびりと動いて、くもが出て来る』とのお言葉どおり、この四才のD雄の命を助けるために出てこられた。

 この数秒の間にD雄だけの命だけの問題ではなく、家内や他の孫達、両親、教会は大変な状況に置かれることになるのは、想像してもゾッとする。 なんと、恐れ入ったことではないか。いたらない信心、御祈念しか出来ていないのに、そのことをお受け取り下されている。

 これほどのお働きを頂く者として、神様へどのように向かわせて頂けばよいのか。ここが信心の課題となる。

 『信心は日々の改まりが第一である』との御教えが心に強く浮かぶ。

【一般配布 平成16年11月号 No.364「光道」より】

No:40
●助かりの輪を世界へ

 初めてお便りいたします。

 金光教信者三代目に嫁いで二年(再婚)五十二歳です。

 毎日「あなたの心を元気にするページ」を読ませていただいております。文明の機器で巡り合わせていただいた事に感謝申し上げます。そして、金光教のことが分からない私にとても分かるように説明してくださる押木先生に深くお礼申し上げたくメールいたしました。

「あの事もこの事も神様からのお働きがあって今を生かさせてもらっている」と

先生からのメッセージを読ませてもらい改めて感じさせてもらっています。本当に有難うございます。心が軽くなり毎日お蔭様にて元気を頂いております。有難うございます。

 実は、現在夫の赴任先でありますシンガポールからメールさせてもらっています。当地に赴任させてもらい七ヶ月になります。夫は、何回も来させてもらい英語も堪能です。そして、この国にも慣れさせてもらいバリバリ働かせていただいています。

 私の場合は、何十年も前に英語は教わったきりで、中学生英語からやり直しながらそして、一人で外出させてもらうにも緊張の連続の日々でした。その中で先生のメッセージに巡り合わせていただきました。特に外国で読ませていただくメッセージは、私にことのほか心に沁みてまいります。

 本日は、先生に御礼申し上げたくメールさせてもらいました。

信じさせてもらう稽古をさせていただきますので、これからもどうぞお導きの程宜しくお願い申し上げます。

時節柄どうぞお体をご自愛ください。                 かしこ

 平成十六年九月十一日              (匿名にさせて頂きました。)



 インターネットってすごいですね。数ヶ月前も、パラグアイ国(南米、ブラジルとアルゼンチンにはさまれた国)アスンシオン市の金光教アスンシオン活動センターで御用されている福嶋光次先生からも、扇町教会のホームページを見て、メールをよこして下さいました。

 インターネットとはそのような働きのものであると、知識では知り、ホームページを開設し、多くの教話集や金光教の紹介、扇町教会の活動を記載していますが、実際に外国で生活されている人からメールを頂くと、その働きの大きさを実感します。そのようなことで、お結界の机に地球儀(豊中教会の開教百年の記念に頂いた)を置いています。

 扇町教会のホームページは月間一五〇〇回ほど開かれ閲覧されています。この数字は年を重ねても減っていません。初めはめずらしく、やがて数は減るだろうと想像していましたが、うれしいことに、その予測は外れました。

 じつは、そのあとが大切です。ホームページで教話集を読み、この道の信心を知識として理解できても、信心して助かることにはなりません。信心して助かるには、『神様に実意の真心を尽くす』ことがいるのです。インターネットは便利ですが、入り口にすぎません。信心は神様と関係を持つことです。その関係のありかたにより、おかげの現れ方が違ってきます。


【一般配布 平成16年10月号 No.363「光道」より】